MMSTでは、作品を「鑑賞する」ということに重点をおいたトーク企画『agoratio』をスタートしました。これは、観賞後に感想を語り合うトーク企画というよりは、その作品がどういうものであり、どういった可能性を持っているのか、という「読解」に比重をおいた対話の場を作るべく立ち上げたものです。たとえば、舞台作品において鑑賞者は、それぞれのシーンや台詞に感動したり、共感や反発も含め、様々な感想を持つと思います。しかし、それが自分の体験に引きつけて連想された感想に過ぎず、作品そのものとは直接関係のない「思い」になっていることも多いのではないでしょうか。もちろん、「感想」は人それぞれの思考になりますので、それ自体を否定するものではありません。しかしながら、作品鑑賞において、相手(=作品)と無関係に「私はこう思う」という一方通行の主張を展開するとなると、作品はある意味何でもいいということにもなりかねません。かつてMMSTでは、団員向けの戯曲勉強会を開催していたことがあります。週に数冊、指定される共通の戯曲を読み、「あらすじ」を書いて共有し合うというものです。ここでは「どう思ったか」という感想ではなく、あくまで何が書かれているのかという「あらすじ」を書くことがルールでした。どんなにあらすじを書いてきたとしても「同じ戯曲がここまで違うのか」というほどにメンバーそれぞれが違うものを書いてくることも少なくありませんでした。それほどに「作品を読解する」ということが容易なことではない、という現実を知る機会であり、同時に作品鑑賞の可能性と豊かさを感じる機会にもなりました。日常生活においても「あの人は勘が鋭い」「インプット力が高い」という人がいますが、そのような人は大抵、相手や物事に対する「読解」の能力が高いとも言い換えられると思います。その読解をおこなった上で「自分がどう考えるか」という順序を踏んでいる。そして、そうであるが故に現状を見誤らずに対話ができるのではないでしょうか。近年SNS上でも、この記事をどう読んだらそう思えるのか、という極端な曲解コメントが散見されるようになりました。インターネットをはじめテクノロジーの進化によって膨大な情報が瞬時に流れ去っていく現代において、人々は「どう思ったか」というアウトプットに迫られ、「何を言っているのか」というインプット(=読解)を疎かにしてしまう傾向にあるのかもしれません。一方で、作品のコンセプトや作者の狙いが正解であるかのような読み方にも問題があるように思います。研究論としてはある種必要な態度かもしれませんが、作品と鑑賞者における対話を矮小化することにも繋がりかねないように思うのです。作品が「何を語っているのか」という読解を前提として「観る」こと、その上で「私は何を考えるか」という相互対話の中に作品鑑賞の可能性があり、ここにこそ「公共」という概念が有効に機能する場があるのではないでしょうか。『agoratio』に取り上げてほしいという劇団や実演家がいましたらぜひお声がけください。