2025/10/13

観客とは誰なのか?

私がまだMMSTに所属する前のことですが、岐阜にある可児市文化創造センター館長の衛紀生さんによるアートマネージメント講座に参加したことがありました。劇場と地域、そこに集う人々についての実践的な内容で、私にとって発見や学びの多い機会ではありましたが、なかでも「観客とはどのような人か」を明確にしていない自分に気付かされたことは大きかったと思います。「観客」とは誰なのか?キュレーターとして作品をこういう人に見せたいと考えておきながら、集客のためにチラシや広報物を配布する際には近視感的になり「観客」を矮小化してしまう、という経験を繰り返してきました。親兄弟、友人知人、演劇好き、出演者のファン、演出や劇作など上演作品に関心がある人、劇場の会員、など、「観客」を漠然としたイメージの中で考えてしまうのです。ある時、代表から、作品とどのような人を繋ぎたいのか、と問われ、「やりたい理想」と「やっている現実」のアンバランスさの中で回答に窮し、冷や汗をかいたこともあります。「集客」という現実の前で理想としての「観客」がボヤケてしまうのです。では「観客」を明確化すれば良いかというと、それほど単純でもありません。例えば、助成を受けたり、行政機関が主催する事業に関わると、教育や福祉的な観点への期待と要望が高く、対象が定まっていると言えば定まっています。貧困家庭の子ども、子育て中の親、高齢者、障がい者、簡単に外出が難しい人、ホームレスetc..にどういう機会を提供するのか、社会から排除されがちな人々に配慮し、取りこぼさない社会を目指そうとするいわゆる「社会包摂」という考え方が言われはじめて久しいですが、私はここにも違和感を抱いています。勿論、この考え方自体は悪いことだとは思いませんし、税金を財源とする行政機関が「社会包摂」を主張しようとする立場もわかります。しかし、社会の包摂が「誰にでも開かれた劇場や作品を目指すべきことだ」と言われると、やはり「観客」というものが霧の中に隠れていってしまうように思えるのです。 日本の公共ホールが多目的に利用できる施設を目指したがために、どこにでもあるような主張のない施設ばかりになってしまったように、個性を尊重していたつもりが、個性を潰してしまうといったことはよく起こります。様々な事情で、公演や展示、コンサートなどに行きたくてもアクセスが難しい人々がいるのは確かです、しかし安易に「誰もが楽しめる」や「誰もが参加できる」ことを目指すことが、そのような問題に対する答えになるのかどうかは落ち着いて考えるべきなのではないでしょうか。芸術には、ある常識とされる価値観に「本当にそうなのか」という疑義や「(私たちは)こう考える」という主張を投げかけて問題提起をする側面があります。立場によってこれらは「暴力」と受け止められてしまうこともありますが、誤解を恐れずに言えば、医者が患者を救う際に場合によっては麻薬を使用するように、芸術が持つ「暴力」を社会に対して有効に活用していく、といった試みが必要なのではないでしょうか。社会包摂を考えるならば、「包摂」が持つ暴力性を自覚し、且つそれが一体誰にとって必要なのかを考え抜くこと。そのような問題を問いを続ける思考と実践の中に「観客」が生まれていくのだと私は考えています。 創客とはそのような地平でこそ考えられるべきことなのではないでしょうか。

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