MMSTの稽古では「限界ギリギリで闘う」という表現が頻繁に登場します。これは「余力を残さず、自分にとって超えられるかどうかの瀬戸際で挑戦すること」を意味します。私は、この限界への挑戦で必要とされるのは「強い精神」なのだと理解していましたが、稽古場で演出の言葉を注意深く聞いていると、単純に「必死に取り組むこと」とも少し違うのではないかと考えるようになりました。そもそも限界とは何かを考えたとき、私は「限界のライン」が何を指すかを正確にイメージできないことに気づきました。目標ラインがあやふやな状態のままでは、「ギリギリ」もなにもありません。何を越えようとしているのかが不明瞭では、たとえどんなに強い精神や前向きな気持ちがあろうとも空回りの状態が続くことに繋がります。「限界ギリギリ」のために重要なことは「精神」ではなく、自分にとっての具体的な目標ラインを明確にすることなのではないでしょうか。そのラインを越える挑戦をする中で「精神」が培われていくのだと思います。
MMST Curators Note
チーフキュレーター古賀裕奈が毎週日曜日に発信しているテキストです。
2025/06/09
2025/06/02
課題に対するシビアな問い
「問題」と「課題」という言葉は似ていますが、そのニュアンスには違いがあります。「問題」とは、目標を妨げている状態のことを指し、「課題」とは、その問題を解決、改善するための具体的な行動やその取り組みのことを指すそうです。
MMSTの稽古では、自己の「問題」を正確にとらえ、その「課題」に対してシビアな「問い」を持つことが求められます。たとえば「身体を真っ直ぐにして立つ」という目標を俳優が持ち、実際には前傾になってしまうという「問題」が生じる場合、意識を強く持つ、という「課題」意識だけではなかなか解決に至りません。「何がどうなってしまうのか」「どんな工夫が必要なのか」ということをシビアに見定め、課題に対して「問い」を立て続けていくことが解決への唯一の手段であり、近道であるとしています。私は頭で考え混むことが多いため、そのような「シビアな問い」を実践と共に考えたいと思います。
2025/05/25
我慢のしどころ
「我慢」はかつて日本の美徳とされていましたが、近年では「自分らしく」いることが重要視され、無理に我慢をしない方がいいという風潮も出てきています。私自身、自殺者が多いこの国において、自己抑制的な考えを回避する人が増えることは仕方のないことだと考えてはいましたが、一方で、我慢することそのものが悪いことのように捉えられることには違和感もありました。MMSTの稽古をみている中で「我慢をする」にも、そのしどころというものがあるのだと考えるようになりました。闇雲につらいことに耐えるのではなく、自分の中にある「なるようになってしまう」ポイントを発見し、それをなんとか「そうならないように堪え切る」ことは必要な「我慢」なのではないでしょうか。そのような自己抑制の行程は、誇れる「自分らしさ」の醸成に繋がっていくものだと思います。 単純に自分を押し殺すことと混同せず、我慢するポイントを見極めたいと思います。
2025/05/18
振り幅
MMSTの稽古では「振り幅を大きくする」ことが求められます。これは、自らのエネルギーについて最小から最大の差をできる限り大きくする、ということを意味します。振り幅が大きければ大きいほど自らの身体や精神のコントロールが難しくなりますが、あえて困難な状況を作り出すことで舞台上で求められる強いエネルギーが必要とされる、という考えに基づいています。一般的に、大人になればなるほど自分自身のコントロールが要求されますが、コントロールできる振り幅にとどまる限り必要とされるエネルギー自体は弱まってしまいますので、成長に繋がっていくこともなくなってしまうように思います。苦しくなると困難を少なくし自分が対応できるレベルで落ち着いて考えたくなってしまいますが、そういう時こそ「大きな振り幅」を意識したいと思います。
2025/05/11
仕方がない、を考える
「仕方がない」という言葉は、日常会話でもよく使うと思います。特に、うまくいかない時、色んな理由を並べて「仕方がなかった」と言いたくなることはないでしょうか。私自身、何度となく「仕方がない」のお世話になってきました。シンプルに失敗の原因が何かを考え、どうすればよくなるのかを考えた方が未来的で健全なはずなのですが、気を抜くと「仕方がなかった」ということにして、うまくいかない状況や自分自身を擁護したくなります。しかし、それは自分を守っているようで、むしろ守れていない状況を自ら作りだしていることになります。「諦める」「逃げる」の言い訳にしかならず、そこで好転する機会を失うことになってしまうからです。
MMSTの稽古でも「仕方がない」は成長のスピードを遅らせるという話があります。うまくいかない時ほど、「なぜか?どうするべきか?」という未来的な問いを自分に向ける癖をつけようと思います。
2025/05/05
当たり前の基準
先日、輝かしい戦績を持つ剣道強豪校が全国大会の連覇を逃し、選手たちが涙する映像を見ました。短いながらドキュメンタリー形式で構成されており、日々の過酷な練習や優勝常連校であるというプレッシャーの中で戦う部員たちの日常がまとめられていました。彼らの姿を見て「強さ」とは、当たり前の基準がどこに設定されているかということなのではないかと思いました。先輩たちが代々懸命に繋いできた実績から考えれば、彼らにとって勝つことは「当たり前」であり、その「当たり前」を維持するには日々のきつい練習にも耐える必要があります。そして、それ自体が「当たり前」であるという強固な「基準」があるように思いました。そして、日本一や世界一を目指すならば、さらにシビアな基準を持たなければならないということになります。映像の中で監督が生徒たちにかけた「基準を変えろ」という言葉を、自分の中にも持たなければと思いました。
2025/04/27
縁と継続
先日、MMSTの台湾での国際共同制作プロジェクトが終わりました。2019年に当プロジェクトの話が持ち上がり、その後のいくつかの出会いの中で少しずつ形づくられ、気がつけば2つの劇場を横断するプロジェクトに発展していました。「縁」といえばそれまでですが、今回私は、何かを実現しようとした時に必要なものは継続性だと感じました。
MMSTの代表は事業が終わった際に出演者や関係者にいつも話すことがあります。
「真剣に続けていればまた出会うことがあるでしょう」
出会うことは偶発的なことであり、それを縁と呼び喜ぶのもいいと思いますが、その縁が次に繋がるかどうかは、継続する意志があるかどうかだと思います。実現の過程では、いい時ばかりではなく、実際には困難にぶち当たることの方が多いのではないでしょうか。それでもめげずに継続した先に、実現することはもちろん、次のご縁もまた生まれるのだと思います。