人は集団で生活する動物とされており、家族や学校、会社などの組織において複数の人々と協力し生活しています。しかし、昨今ではコミュニケーション技術の革新や社会環境の変化により「集団」的な感覚の衰弱が指摘されています。実際に、表立った大きな喧嘩は避けお互いに踏み込まない距離感を好む、いわばドライな関係性を良しとする場合が多く、できるだけ回避するべきものとして「集団」が捉えられてしまっているように思います。演劇は元来「集団の芸術」と言われるように集団性のプロフェッショナルという立場であったはずですが、残念ながら演劇界においても集団意識が衰弱していると言わざるをえない事例を耳にするようになりました。
MMSTの稽古においても、たびたび「集団の技術」という話が出ます。自らの行動や発言がどのような意識との関係において選ばれているのか、それが「パーソナルな意識」なのか「パブリックな意識」なのかを考えるということになります。これは「自己の損得勘定」と「集団の損得勘定」と言い換えても良いですが、健全な集団はこの2つが同時に機能している場合に実現すると考えています。その観点からすると、特に日本においては「集団」が個人の犠牲によって成立するというイメージが強く、「集団の損得」については抑制傾向にあり、それに伴う技術的発展が停滞していると感じざるを得ません。まず、この認識を根本的に見直す必要があるのではないでしょうか。韓国俳優との共同制作をすると、まさにこの「集団の技術」を強く感じます。彼らは決してパーソナルな考え方や意識を押し殺しているわけではありません。集団の技術として、どういう言葉や振る舞いが必要なのか、自分の役割は何かを考え、理想の実現の為、あらゆる工夫を実践しているにすぎません。集団や自己を規定する客観的な基準の設け方の中に、膨大な実践において研鑽されてきた「技術」があるように思うのです。私が見てきた国内の現場では、余裕がなくなってくると集団を捨て個人を優先するケースが多かったです。「他人の為」というのは「個人の心の余裕があってできるもの」という振る舞いがまことしやかに言われておりますが、本当にそうなのでしょうか。そもそも、その程度で見失えるひ弱な他者意識で良いのか、そして、それを認めること自体が集団の敗北、演劇の敗北と等しいのではないでしょうか。まさにここに圧倒的な集団技術の不足があるように思うのです。まずは、個人か集団かいずれか一方という狭量な見方を捨て、どちらも最大限求めていくという視野に立って技術を磨く演劇人の出現が必要なのだと思います。