2025/03/16

人のコップに水を注ぐ

 他人より自分をまず優先するという意味で使われる「自分ファースト」という言葉。

本来良い意味ではありませんが、最近では、「他人を幸せにするためには、まず自分が幸せにならなければならない」という肯定的な意味で捉えられることが増えていると聞きます。

個々人の気持ちは楽になりそうですが、実際に社会コミュニティを円滑にしているのかは疑問が残ります。

MMSTでは、集団や関係性についての考え方について、よく話題に上がるたとえ話として、「人のコップに水を注ぐ」という話があります。

これは、自分は他者のことを考えよう、自分のことは他者が考えてくれる、という趣旨の話です。確かに、自分で自分のコップに水を満たしている人に、他人は水を注ごうとは思いません。

「自分のことは誰かが考えてくれる」くらいに留め、自分は他への気遣いや配慮をする、このことが結果的には他者、ひいては社会との関係性を強くし、人間を強くしていくのだと思います。

2025/03/09

背骨の美学

 近年、福岡市周辺の小学校では、授業の号令で「腰骨を立てましょう」と言うそうです。児童たちは、腰から背筋を伸ばす姿勢をとることを促されます。私も小学生の頃は姿勢を正すように言われた記憶はありますが、より具体的な姿勢のあり方へと指示が変わっているようです。

MMSTの稽古でも、この数ヶ月「背骨の美学」の話がよく出ています。

中心や重心、腰周りを自覚的に捉えて、それらを意識的に使いながら、日常生活で立つこととは異なる、いわゆる舞台上における「立つ」を目指していくものです。

背骨を意識する、言い換えると「私はこうする」という意志を明確にすることであり、それを自己の美学として貫いていく訓練といえます。これは俳優訓練に限る話ではなく、舞台以外のどの分野の、どの仕事においても共通するものなのかもしれません。

「私の美学」をどれくらい明確に持ち、貫けるのか。私自身も稽古のたびに背筋が伸びる思いです。

2025/03/02

MMSTheaterの道のり

 MMSTでは、2ヶ月に1度「MMSTheater」と題したトークイベントを開催しています。

このプログラムは、歴史に名を残した演劇人を取り上げ、その仕事を振り返りながらこれからの演劇や創作のヒントを探っていこうというもので、2023年3月から全14回、2年がかりのトークイベントとしてスタートしました。開始時は長い道のりに感じていましたが、次回で13回目、ゴールも間近です。

このような連続企画では、とにかく継続、維持することが最も難しく、時には苦労も伴います。そのため個人の想いだけではとっくに挫折していたかもしれません。

そのような企画を「続けるコツ」は、自分以外の何かとの関係性を使うことだと聞きます。

登壇者、参加者の方々と共闘するかのような関係性の中で、現在のところ中断せずに進むことができているのは、その好例だと感じています。

こうした積み重ねが説得力に繋がると信じて、武道の教えにもある「継続こそ力なり」を体現できればと思います。

2025/02/23

バイタリティ

 「活力、いきいきとした」という意味のバイタリティ。特に日本では、「不屈、逆境に負けない」というニュアンスを含んで使われることが多いと思います。物事を動かすには、エネルギーや強引さが必要な場合が多々あり、この強さがある人を私はバイタリティがあると捉え、魅力を感じます。

 しかし、昨今では、ハラスメント問題も関係してか、強引な人や態度にはブレーキをかけるべきという考え方が増えているそうです。“リスクは極力減らし、無理はしない方が良い。”一方では正当な態度だとは思いますが、今の政治家を見ても責任回避を前提にした議論が散見され、この先に本当に「活力ある」未来があるのか疑問が浮かびます。「諦めない」ことは簡単ではありません。だからこそ価値として認められ、人も惹きつけられるのだと思います。うまくいかない時は安全策を取りたくなりますが、そんな時こそバイタリティという言葉を思い出して実行していきたいです。

2025/02/17

子どもの能力

子どもが描く絵をみると、思い思いの色や形があり、「子どもは感受性が豊か」などと言われます。「こうすべき」という社会規範に縛られておらず、自由で羨ましいと思ったことがある人も多いのではないでしょうか。私は感受性こそが子どもが持つ能力ではないかと思います。 ある人が日本の子どもは義務教育と共に感受性を失う、と悲観していました。 私は、社会の中で生きるためには、ある種のルールとしての「こうすべき」論は仕方がないことだと思います。そして、そのルールに対してどう対処するかがその人の個性に繋がると思います。 「こうすべき」論が子どもの感受性を失わせているというより、時代とともに「こうすべき」への対処の仕方を見せられる大人が減っているのだと思います。 「こうすべき」に対して、全く違う視点で、時には暴力的に切り込み、当たり前に考えていたことは「本当だろうか?」と自問させる芸術家の存在がここで必要になると思います。

2025/02/10

地味なところにこそ

 MMSTの稽古では「台詞を喋る、動く」といった外側から見てわかりやすい部分ではなく、「身体の重心を保って立ち続けること」や「日常とは違う感覚の中で呼吸を続ける」という表面的には認知できないものを重要視します。この見えない部分への自覚的な意識を養うために俳優は訓練を続けなければなりません。スポーツでも音楽でもその他の分野でも、たいてい基礎トレーニングというものがあります。舞台芸術でいえば、バレエのバーレッスンがそれにあたります。プロと呼ばれる人々はこの基礎トレーニングを怠りません。

 この基礎を継続することは地味で退屈です。しかし、ここにどれだけ向き合えるかによって成長の度合いが変わると言われます。地味の語源は、「本質的なものの趣」という説がありますが、物事の本質を捉える為にはこのような地味で退屈な取り組みが必要不可欠なのかもしれません。一流と言われる人々が基礎を重要視する所以はここにあるのではないでしょうか。

2025/02/02

頼もしい先輩像

私は、破茶滅茶な生き方をしている先輩方に出会うと、不思議と元気をもらうことがあります。周りを巻き込んででも物事を動かすバイタリティや実行力に魅了されているのかもしれません。そのような人を“頼もしい”と表現すると思いますが、この“頼もしさ”とはどのようなことを指すのでしょうか。 芸術家でも、経営者でも、政治家でも、世に名を馳せている人は大抵「私はこう考える」だから「こうする」という、「考え」と「行動」とが一つの連続性をもって働いているように感じます。MMSTの日々の稽古で言えば、「意識」と「身体」ということになりますが、「考える」ことと「身体を動かす」ことを関係付けて扱うことは実は容易なことではありません。私が頼もしいと感じるのは、諸先輩方が「思考」と「行動」とをなんとか一致させてきた実践的な連続性の輪に、一瞬でも触れているように感じた時なのかもしれません。

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