2024/09/15

「なんとなく」の害

 日常生活において、なんとなく選んで決定してしまうことは少なくありません。それは「なんとなく」という感覚的な気持ち以上に特にこだわりがあるわけでもないですし、普段の生活の中で些細なことの一つひとつを分析、思考して理由づけていくことは疲れると思ってしまうからです。 ただ、舞台上で実際に創作を進める過程においては、この「なんとなく」の決定は「そこにこだわりがない」「価値をおいていない」ということと同義ということになってしまいます。名優と言われる人達の中には「舞台上では何も考えていない」「感覚的にやっている」という人がいますが、それは言葉上でのことであり、実際は考えていないわけでも、選択を放棄しているわけでもないのだろうと思います。 MMSTでは、「今、この瞬間をどうつくるか」という舞台の戦いの場では、この「なんとなく」が最も強く厄介な敵であると考えて日々の訓練を重ねています。

2024/09/08

舞台上で生きること

 公演の本番はもちろん、稽古においても、私は舞台上で集中する俳優に神秘性を感じる時があります。

「舞台に上がった俳優は日常とは違う感覚をもって時間と空間を生み出す」 私は当初この話を抽象的に考えていましたが、様々な現場に立ち会う中でかなり具体的なことだと理解するようになりました。 日常生活にはない呼吸感覚や身体感覚を鍛錬した俳優は、舞台に上がった時、確かにその時空、瞬間を生きている。生き直しているというと語弊がありますが、普段生活する中での体や意識とは別物として登場し、別次元の世界(空間)をつくり出します。 非日常を生きるために何が必要かを真剣に考え、もがいて、一歩舞台に上がればそこに生きる覚悟をもつ俳優が説得力を持つのは当然のことであり、見る者の価値観を揺さぶる可能性を広げることも頷けます。俳優が舞台に生きる意味はここにあるのだろうと思います。

2024/09/01

フラットな国際交流

 現在MMSTでは台湾、韓国、日本の演劇関係者らと共同制作のプロジェクトを進めています。国際交流事業を行う場合、各国の俳優やスタッフはアトリエにて共同生活を送る場合が多いですが、互いの生活習慣、食生活などに触れた際にはおのずと文化の違いや価値観について振り返る機会になります。また、生活面では食事後の皿洗いをジャンケンで決めるという方法を取り入れており、なぜか毎回とても盛り上がります。この皿洗いジャンケンは公平に片付け者を決めるということではありますが、それだけでなく、関係者間の円滑なコミュニケーションにも繋がっていると感じることが多々あります。

グー、チョキ、パーのたった三種類の手の形を使ったシンプルな遊びが、国を超えて、一つのルールのもとに、知らずしらずのうちに交流を深めています。

2024/08/26

空間的な情報共有

 人間は同じ空間を共にするだけで多くの情報をやりとりしているようです。空間芸術、集団芸術と言われる舞台芸術の世界では当たり前のことかもしれませんが、現代社会では特に軽んじられていると感じることが増えてきました。様々な情報交換ツールが発達し、効率化を求めると、確かに人と人が情報を交換するためにわざわざ同じ場所に集うことが非効率であるという考え方になってしまうことは理解できます。しかし、一方で、同じ空間を共にしていないがために落としている情報というものもあると思います。

 言語化できないのですが、なぜか、会わない時より、会った方が交わした言葉は少なくとも、相手の状況や考えを共有していることが確かにあるのです。ただ同じ場所にいることによって、見えない情報交換がおこなわれているとしたら、それこそが豊かな情報なのかもしれません。

2024/08/18

恩師の言葉

 大学時代の大恩師、美術研究者の浅野徹先生の訃報の知らせを受け、20年ほど前の思い出の数々を振り返っています。私は学生時代に美術史を専攻しており、研究者としても美術館学芸員としてもご活躍されていた先生から、多くの学びを受けました。先生のご指導の中で、今でも心に残り、人生の教訓として刻んでいる言葉があります。

「学びとは山登りのよう、ようやく山頂に登り着き、そこからの景色をみた時『あぁ、自分は何も知らなかった、知らないということを知らなかった』と知る、そのように感じられる、そこに学びがある」

 どなたかの山登りの体験についての著書の一節を引用してのお話しで、当時必死に修士論文を書き上げてほっとしていた私は、自分の学びを省みる機会になりました。今でも、背筋の伸びた姿で研究室の椅子に座り、柔和な笑顔で「やあ」という先生の顔が忘れられません。先生、ありがとうございました。ご冥福をお祈りします。

2024/08/11

集団の中の意識

 「私たちはチームですから。」

 数年前、とある演劇創作の現場で一つの困難を抱えた時に、出演者の一人であった俳優が言った言葉です。学校でも会社でも集団への意識、優先度が低くなっている昨今、この言葉が頭をよぎります。先日、剣道の全国大会に立ち会う機会がありました。全国の小中学生たちがしのぎを削って勝ち上がり、頂点を目指す場です。特に団体戦では、歴代名を残してきたチームになればなるほど、大将のプレッシャーは計り知れません。チームが努力してきた過程、試合に出られない仲間、コーチ、親族ら周囲の支援、過去の先輩が残してきた成果、その全てを背負い、自分が勝ちたいということだけではない重い責任感の中戦っているのかと思うと、見ているだけでも緊張します。集団創作と言われる演劇ではどうか?彼らの姿を見て、自分がどうしたいか、以上に、自分はこの集団にとってどうあるべきか、という意識を振り返る機会になりました。

2024/08/04

「疑っています」は誰が得するのか

 「あなたを疑っている」という言葉を直に投げかけられることはあまりないですが、疑われているなという状況に出会うことがあります。たとえば、やたらと注意書きが多い公共スペース。確かに不特定多数の様々な人が利用し、時にはルールを守らない人もいるので、書きたくなる気持ちは分かります。

 しかし、一方で「〜しないでください」、「〜してください」の文言が溢れる中で、どれくらいの人が気持ちよく利用できるのだろうと思います。他にも、郊外でよく見かける無人の野菜販売所に監視カメラがついている場合、私は悪いことをするつもりはなくても、何かいたたまれない気持ちになります。そんな私自身、そのつもりはなくても、「疑われている」と思わせる行動をとっていたことが振り返るとあります。「疑う」ことそのものは悪いことだけではないですが、円滑なコミュニケーションを考える時、誰が得をするのかという問いを一度自分に向けようと思います。

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