2025/06/30

過去の参照

先日仕事で、高校生の研究発表大会に立ち会う機会がありました。参加していた学生の多くは事前にプレゼン資料や原稿を作り込んでPRしており、審査員の質問に対して原稿の中から必死に応えようとあたふたしてしまう学生が多かったと思います。そんな中、印象に残ったのは、質問をきちんと受けとめ、たどたどしくも自分の考えを述べている学生の姿でした。私もかつて就職面接で事前に準備してきた問答に頼りきり、ちぐはぐな答えしか返せなかった苦い経験があり、面接やプレゼンに苦手意識があります。準備したものをどんなにうまく再現できたとしても、「今」という時間やそこにいる相手や状況を無視すると、伝わるものも伝わらなくなるのだと今回改めて感じました。とはいえ、事前準備や過去の経験が必要ないということではありません。「以前はこうだった」とよく過去を参照してしまう私自身の実体験から考えてみると「過去を参照する」ことが悪いというよりは、「今」をなんとかするという前線への意識の弱さが問題なのだと思います。事前準備はあくまで、前線に立つという「今」に対応するための道具であり、その道具は前線でより良く戦う為にはやはり必要なものなのです。「今」がどうなっているか、そして、「どうするか」を引き受けて、「過去の参照」という道具を活かして「やってみる」ということが重要なのだろうと思います。

2025/06/23

諦めることと手放すこと

 諦めることは大抵ネガティブに捉えられますが、私は自分の中にある「こうしたい」はあえてポジティブに諦めた方がいいと考えています。これは、自分の意思を手放すことのように聞こえるかもしれません。私自身、自分はどうしたいのだろうと悩み、気がつくと時間だけが過ぎていることがありました。MMSTの稽古において「選択肢があり選べると考えている時点で前線にはいない」という話がありました。確かに私が会社を立ち上げた当時を振り返れば、実は自分の強い意志で設立したわけではありません。様々な事象が関係している中で「そうせざるを得ない、ならば」という程度であり、現実的な状況の中で決定し実行しただけなのです。これを前線だとするならば、悠長にどうしたいかと考える暇はありませんし、結果物事は前進しています。「自分はどうしたい」ではなく、自分の中にある選択肢は早々に諦め、状況を冷静に捉えて、怖くても自分だけのこだわりだと思うものは一度手放すこと、それを繰返す中で前線という「現実」に立つ意識が芽生えるのかもしれません。

2025/06/15

視界の範囲

「どのレベルで物事を把握するか」という立ち位置で見えている範囲が変わることがあります。町内会レベルの催しを考えることと、数万人規模の催しを考えるのとでは、費用も人的リソースもリスクも桁違いに変わるはずです。冷静に考えれば当たり前のことですが、私はたとえ大きな催しの中で考えると決めたとしても、知らぬ間に目の前のことだけに囚われて考えていることがあります。範囲を狭めた方がより把握できると無意識レベルで考えているのかもしれません。ある実業家が、「経営者は全てを自分のせいだと思えるかどうかが重要だ」と話していました。言い訳を考えている時点で、自分が想定した範囲が狭かったことが見えていないのだと。ここでいう想定の範囲が曖昧だと、エラーが起こった際に検証がしづらく、結果言い訳をするしかなくなるのだと思います。 視界の範囲を広げるというより、どこを想定するかの視界のクリアさが必要なのだと思います。

2025/06/09

限界のギリギリ

MMSTの稽古では「限界ギリギリで闘う」という表現が頻繁に登場します。これは「余力を残さず、自分にとって超えられるかどうかの瀬戸際で挑戦すること」を意味します。私は、この限界への挑戦で必要とされるのは「強い精神」なのだと理解していましたが、稽古場で演出の言葉を注意深く聞いていると、単純に「必死に取り組むこと」とも少し違うのではないかと考えるようになりました。そもそも限界とは何かを考えたとき、私は「限界のライン」が何を指すかを正確にイメージできないことに気づきました。目標ラインがあやふやな状態のままでは、「ギリギリ」もなにもありません。何を越えようとしているのかが不明瞭では、たとえどんなに強い精神や前向きな気持ちがあろうとも空回りの状態が続くことに繋がります。「限界ギリギリ」のために重要なことは「精神」ではなく、自分にとっての具体的な目標ラインを明確にすることなのではないでしょうか。そのラインを越える挑戦をする中で「精神」が培われていくのだと思います。

2025/06/02

課題に対するシビアな問い

 「問題」と「課題」という言葉は似ていますが、そのニュアンスには違いがあります。「問題」とは、目標を妨げている状態のことを指し、「課題」とは、その問題を解決、改善するための具体的な行動やその取り組みのことを指すそうです。

 MMSTの稽古では、自己の「問題」を正確にとらえ、その「課題」に対してシビアな「問い」を持つことが求められます。たとえば「身体を真っ直ぐにして立つ」という目標を俳優が持ち、実際には前傾になってしまうという「問題」が生じる場合、意識を強く持つ、という「課題」意識だけではなかなか解決に至りません。「何がどうなってしまうのか」「どんな工夫が必要なのか」ということをシビアに見定め、課題に対して「問い」を立て続けていくことが解決への唯一の手段であり、近道であるとしています。私は頭で考え混むことが多いため、そのような「シビアな問い」を実践と共に考えたいと思います。

2025/05/25

我慢のしどころ

「我慢」はかつて日本の美徳とされていましたが、近年では「自分らしく」いることが重要視され、無理に我慢をしない方がいいという風潮も出てきています。私自身、自殺者が多いこの国において、自己抑制的な考えを回避する人が増えることは仕方のないことだと考えてはいましたが、一方で、我慢することそのものが悪いことのように捉えられることには違和感もありました。MMSTの稽古をみている中で「我慢をする」にも、そのしどころというものがあるのだと考えるようになりました。闇雲につらいことに耐えるのではなく、自分の中にある「なるようになってしまう」ポイントを発見し、それをなんとか「そうならないように堪え切る」ことは必要な「我慢」なのではないでしょうか。そのような自己抑制の行程は、誇れる「自分らしさ」の醸成に繋がっていくものだと思います。 単純に自分を押し殺すことと混同せず、我慢するポイントを見極めたいと思います。


2025/05/18

振り幅

 MMSTの稽古では「振り幅を大きくする」ことが求められます。これは、自らのエネルギーについて最小から最大の差をできる限り大きくする、ということを意味します。振り幅が大きければ大きいほど自らの身体や精神のコントロールが難しくなりますが、あえて困難な状況を作り出すことで舞台上で求められる強いエネルギーが必要とされる、という考えに基づいています。一般的に、大人になればなるほど自分自身のコントロールが要求されますが、コントロールできる振り幅にとどまる限り必要とされるエネルギー自体は弱まってしまいますので、成長に繋がっていくこともなくなってしまうように思います。苦しくなると困難を少なくし自分が対応できるレベルで落ち着いて考えたくなってしまいますが、そういう時こそ「大きな振り幅」を意識したいと思います。

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