制作者がカンパニーや実演家と社会を繋げるハブのような役割だとすると、団体にとって対外的な窓口を担うということになりますので、交渉や情報収集をいかに行うかが問われてきます。 そのような中で「制作者のネットワークをどのように繋げるか」、制作者はここに苦心しているのではないでしょうか。演出家や劇作家の連帯を目的とした協会があるように、制作者のネットワーク組織も大小含め様々存在しております。インターネット時代の昨今は、たとえ足を運ばなくてもそこにアクセスし情報を収集することができるようになりました。しかし、遠隔で得る知識や情報に対して、実際に顔をつきあわせて取るコミュニケーションの方が不思議と具体化に繋がる情報を得ることが多いように思います。私はかつて、東京で開催されていたある制作者の勉強会に参加しました。国際市場を意識する劇団や制作者に向けて、海外のアートプロデューサーへのPRの仕方、資料の作り方を共有・提供するという趣旨のもので、実際に使われた劇場との英文契約書も資料として使われるなど、大変勉強になったことを覚えています。 また、参加者の中には、様々な現場で実際に活躍している人も多く、休み時間には過去に参加したフェスティバルの体験を共有し合うなど、生きた情報の交換ができ大変有意義な時間を過ごすことができました。講座終了後、今後も情報交換ができる場所を、ということでグループチャットが作られましたが、主催者側からフェスティバルの情報が数回流された程度で、うまく活用されずに閉じられてしまいました。やはり、顔を合わせない情報のやりとりというのは、かなりのエネルギーや持続の為の特殊な技術を必要としますし、必ずしもその熱意に見合うものが返ってくるとも限らないという点で簡単ではないというのが実感です。私の経験では、既知の海外のプロデューサーらと定期的に顔を合わせたり連絡を取り合うようになると、そのプロデューサーから派生して「具体的」な情報が入ることがあります。そして、この時のコミュニケーションが実は重要で、情報をもらうだけでなく、逆に相手にとってどういう情報があればウィンウィンな関係になれるか、という共栄意識を持つことが大切だと思っています。自分たちの活動や要望だけに集中しすぎて、この意識が弱まると、結果うまくいかなくなります。制作者が、ネットワークをつくろうとコミュニティを立ち上げてもうまく活用しきれていないのは、この「共栄意識」が弱いところにあるのかもしれません。 舞台芸術分野に限らず、日本のビジネス分野をみても世界と比べてそのような意識が弱いと言われています。神社で購入する商売繁盛と書かれた熊手が、かつては関連会社の反映を願うものであったように、ギブアンドテイクではなく、「ギブアンドギブ」くらいの精神でコミュニティをつくる意識が必要なのではないしょうか。市場も小さく、常に資金不足に悩まされる現実ではありますが、繁栄の独り占めを願うような心の貧乏人にはならないよう頑張りたいと思います。
2025/11/10
不撓不屈とネバーギブアップ
「困難なことにあたっても挫けず、強い信念をもって最後まであきらめない」
私自身幼少期からことあるごとに大人たちから言われてきた言葉です。いつしか目指すべき「理想」として自分の中に定着してはいるのですが、そのような精神を保ち続けることはなかなか簡単なことではありません。最初は強く思えたとしても、うまくいかないことが出てくると、知らず知らずのうちに意思もボヤけ、あきらめの言い訳を考えてしまいます。MMSTの稽古では、「関係性」の話がよく話題にあがります。自分の中だけで、「強い信念をもとう」「諦めずにやろう」と思ってもなかなかうまくいかないので、視野を拡げて関係性の中で考えるということです。例えば、先輩後輩という関係性があります。学校でも会社でも、あるコミュニティの中で、後輩より先に諦めるようでは先輩としての説得力が保てません。後輩に対して、先輩としてどう振る舞うかという関係意識が結果として強い理想を保つことになります。精神的に余裕がある時は良いのですが、焦って来ると関係意識は切断されがちになります。そこが戦いどころだと先人たちも教えてくれてはいるのですが、私自身余裕がなくなると自分自身の意志の弱さや力量不足を悔いたりしてしまいます。MMST代表からは「自分以外の人がいるという現実との関係意識が切れている」と指摘されます。関係意識の切断を「堪える」ことが、「諦めずに進む」ことにとって重要なことなのかもしれません。そのような「踏ん張り」の積み重ねが、結果として「強い信念」に繋がるのではないでしょうか。このBLOGに書き続けている自分が書いた言葉との関係を切断せず「述べたからには実現する」という意地を貫きたいと思います。
2025/11/02
制作者が目指す理想について
舞台芸術業界における「制作者」の仕事は多岐にわたると言われています。団体によって、その仕事の幅や役割も様々で広範囲に渡るため、時には雑用係と自虐する制作者もいるほどです。私が仕事として「制作者」という立場に最初に足を踏み入れた当時、作家や演出家、俳優、テクニカルスタッフのように、実演部分を直接的には担っていないにも関わらず「制作」と名がついていることに不思議さを感じました。しかし、実際に仕事を進めてみると、公演ひとつとっても企画段階から実施後の処理まで、間接的には全てのセクションに関係していると言っても過言では無い業務内容になりますので、総合して「制作」という呼び名が流通しているのも今では理解できます。では、制作者が目指す理想とはなんなのでしょうか。
資金調達力、宣伝力や集客力、当日の運営力、事務作業能力、一つひとつを見れば、こうあった方が良いという具体的なイメージはあげられますが、これら全てをオールマイティにやれる人は実はそう多くないと思います。私はかつて、できるだけ広範囲にやれる能力を高めることが理想的な制作者であると漠然と思っていたこともあります。しかし、あらゆる経験を積んできた今、それも少しズレているようにも思うのです。もちろん先に挙げたような能力を高めるに越したことはありませんが、もう少し大きな視点での目指すべき制作者としての理想像も必要なのではないかと思っています。ある現代美術のキュレーターが作家に対して語っていたことが思い出されます。「社会では到底受け入れられないような価値感を生きているアーティストやその作品を、どのような仕組みによって繋ぎ合わせ、社会にとって意味のある出会いにするか」、ここに目指すべき理想像を考える際の大きなヒントがあるように思っています。「作品と社会を繋ぐ」そして、私がさらに付け加えるならば、その理想に対しての責任を最後まで失わずに持てるか、ということになります。現代では、様々な関係性が希薄になったり、容易に切断できてしまい、できれば責任も回避したいということを志向することが当然と考えられるようになってきていると思います。SNSの発達で多様なアイディアや価値観が簡単に共有される時代、あらためて、やりっぱなしで終わらせず、作品と社会を「繋ぐ」という仕事を責任を持って全うしたいと思います。