以前、公的機関の助成金を受けた際に、助成元の職員から「文化団体は、助成金に頼らず自立した活動ができることを目指すべきである」と言われたことがあります。税金で給料や事業費がまかなわれている公務員に「自立」を指導されるというのも正直複雑な心境でしたし、必ずしも資本主義経済の理屈だけでは測れない文化芸術について、この職員の無理解を感じざるを得ず残念な気持ちになりましたが、一方で「自立」とは何かをあらためて考えさせられる機会にもなりました。日本における芸術文化団体のほとんどがこの呪縛に悩まされているのではないかと思います。特に日本は先進国の中でも文化予算が他国に比べて極端に低いと言われています。これまで諸先輩方が、芸術文化も医療や教育と同線上で考えるべきと考え、環境づくりや制度設計に奮闘されてきましたが、芸術は不要不急のものとしてまだまだその価値を上げられずにいます。しかしこれは、芸術団体の訴えの弱さゆえなのかもしれません。たとえば、経済活動を支える様々な企業、組織はロビー活動といわれる根回しや要望を訴えかける積極的な取り組みをおこない、法律やルールの制定や変更に影響を与えようとしています。実際にその努力で自分たちの活動の優位性を勝ち取ってきた分野も数多くあります。そうした取り組みを経営者や起業家が実践している姿をみると、経営努力ではどうにもならないものだから「自立」は馴染まないのではないかと考えていた自分が恥ずかしくなりました。「自立」とは自らの責任において、社会を作ろうとする取り組みの中にあり、誰かにやってもらって実現しようというのは子どもと言われても仕方がないことなのだと思います。しかし、一個人でこれらを実現しようとしても難しいというのも事実です。コロナ禍には劇場や文化団体、芸術家らが連帯して活動継続のために訴えを起こす活動もみられたように、通常時でも自分たちの活動の価値を訴え、変えていく連帯が必要なのだろうと思います。やっている方向性や美学が違えども、自分たちの活動環境や社会をよりよくするための意識変革を、ある時は協働し、連帯することで変えられるものがあるのではないでしょうか。そうした連帯による「共闘意識」という土壌を耕していく取り組みの中に、根強い「自立」が生まれるのではないかと思います。
MMSTキュレーターの古賀裕奈が、週に1度、日々の活動や社会との接点のなかで生まれた問いを思考のメモとして書き留めている場所です。 すぐに答えが出ることはありません。 それでも、考え続けることを手放さず生きたいと思います。
2026/01/04
まだ見ぬ観客と私
作品と観客とが出会う時、どのような出会い方が社会にとって意味のある出会いになるのか、制作者というポジションに立つ私にいつも重圧のようにのしかかる課題の一つです。作品の内容にしても、広報にしても「わかりやすさ」が求められ、その方が多くのお客さんに届けられるので良い、という価値観が世間には根強く存在します。私自身も実際に公演に向けて多くのことが走り出すと目の前の現実への焦りから、「わかりやすさ」の呪縛に足をすくわれそうになることもあります。某有名俳優があるインタビューにおいて、「演技にしても宣伝にしても『わかりやすさ』を提供しようとする人がいるが、それは観客のことを考慮しているというよりむしろ『見下している』ことになるのではないか」という趣旨のことを話していました。勝手な想像で、このように宣伝した方が「伝わるだろう」と考えることは、本来出会うべき観客を逆に遠ざけてしまうことになるのではないでしょうか。これもある起業家が話していたことですが、商品を売る時に意識することとして、「その商品が生活の中のどのようなシーンで必要となるかをよく考えてみる」とおっしゃっていました。売りたいと思う商品の性能やデザインなど「良いところをどうアピールするか」ではなく、その商品が実際にどう必要となるのかを理想的に考えてみるということです。この過程は、社会との出会い方を考える上で必要なことだと私は思います。「作品の内容から親和性のある属性の人にアピールすればいい」というマーケティング手法によって受け手の志向を限定するのではなく、あくまで「どのような出会いが必要とされるべきなのか」という理想を掲げ、結果そこに反応する人が出てくるというのがシンプルに開かれた良い出会い方なのではないでしょうか。世界中には様々な価値観や背景をもつ「まだ見ぬ観客」が存在します。それら全ての観客との出会いを生むことは現実的には難しいですが、あらゆる情報発信の選択肢が溢れる現代において、こだわるならば「出会い方の質」であり、制作者としてその実現化に対して粘っていきたいと思います。