2026/06/21

集団の技術

 人は集団で生活する動物とされており、家族や学校、会社などの組織において複数の人々と協力し生活しています。しかし、昨今ではコミュニケーション技術の革新や社会環境の変化により「集団」的な感覚の衰弱が指摘されています。実際に、表立った大きな喧嘩は避けお互いに踏み込まない距離感を好む、いわばドライな関係性を良しとする場合が多く、できるだけ回避するべきものとして「集団」が捉えられてしまっているように思います。演劇は元来「集団の芸術」と言われるように集団性のプロフェッショナルという立場であったはずですが、残念ながら演劇界においても集団意識が衰弱していると言わざるをえない事例を耳にするようになりました。

 MMSTの稽古においても、たびたび「集団の技術」という話が出ます。自らの行動や発言がどのような意識との関係において選ばれているのか、それが「パーソナルな意識」なのか「パブリックな意識」なのかを考えるということになります。これは「自己の損得勘定」と「集団の損得勘定」と言い換えても良いですが、健全な集団はこの2つが同時に機能している場合に実現すると考えています。その観点からすると、特に日本においては「集団」が個人の犠牲によって成立するというイメージが強く、「集団の損得」については抑制傾向にあり、それに伴う技術的発展が停滞していると感じざるを得ません。まず、この認識を根本的に見直す必要があるのではないでしょうか。韓国俳優との共同制作をすると、まさにこの「集団の技術」を強く感じます。彼らは決してパーソナルな考え方や意識を押し殺しているわけではありません。集団の技術として、どういう言葉や振る舞いが必要なのか、自分の役割は何かを考え、理想の実現の為、あらゆる工夫を実践しているにすぎません。集団や自己を規定する客観的な基準の設け方の中に、膨大な実践において研鑽されてきた「技術」があるように思うのです。私が見てきた国内の現場では、余裕がなくなってくると集団を捨て個人を優先するケースが多かったです。「他人の為」というのは「個人の心の余裕があってできるもの」という振る舞いがまことしやかに言われておりますが、本当にそうなのでしょうか。そもそも、その程度で見失えるひ弱な他者意識で良いのか、そして、それを認めること自体が集団の敗北、演劇の敗北と等しいのではないでしょうか。まさにここに圧倒的な集団技術の不足があるように思うのです。まずは、個人か集団かいずれか一方という狭量な見方を捨て、どちらも最大限求めていくという視野に立って技術を磨く演劇人の出現が必要なのだと思います。



2026/06/14

国際交流の理想と現実

 MMSTでは、韓国や台湾の演劇人とのご縁があり、かれこれ10年以上毎年何かしらの交流事業を続けてきています。国際交流では、演劇に限らずどの分野においても「言語や文化的背景、価値観も違う人々とお互いに尊重し合う」ことを理想としているのではないでしょうか。理想をそのままシンプルに遂行できればいいのですが、実際に事業をおこなっていくと現実はそんなに簡単ではないことに気付かされます。「違う」ことを前提にしていても、共に作業を進めていくと互いに譲れない部分が出てくることはもちろん、尊重しているつもりがかえって相手の立場を軽んじるような行動になっていた、ということさえあります。MMST代表は、国際共同創作をはじめておこなうことになった当初、関係者に対して「交流はできない」ということからスタートすべきだと話ました。その際関係者からは何を身も蓋もないことを言い出すのだと驚かれました。しかし、これは「交流ができない」と諦めているわけではありません。むしろ「交流ができない」というスタートラインに立ってはじめてどうすべきか悩んだり工夫をする、その試行錯誤の過程がこそが「交流」なのではないかというスタンスの表明でした。仲良くするというだけであれば飲み会で楽しく過ごすことで実現できるのかもしれません。しかし、あえて「舞台芸術を通じての交流」を求めるならば、もう一歩踏み込んだ「交流」を考える必要があるのではないでしょうか。それは、作品の創作という目的を共にする人々が、相手のことがわからないからこそ悩み、どう実現するかを考え行動していくこと、その過程の中で相手の文化や異なる価値観に対峙していくという態度が芽生えていく、ここに国際交流の意義があるのだろうと思います。 

2026/06/07

耳をすませば 〜アンケートでは聞こえない観客の声〜

 MMSTの代表はアンケートを読まない。これは少なくとも私がMMSTに所属した当初から現在に至るまで代表の一貫した態度です。誤解されることも多いですが、これは決して観客を軽視しているわけではありません。特に舞台芸術のように、時間と空間を観客と共有する芸術において、紙一枚(あるいは現在はデジタルでのフォーム投稿のようなものも出てきていますが)で一方的に書いて終わりという関係性ではやっていないということだと理解しています。とはいえ、一スタッフ側の事情としては、観客層や公演した会場と集客状況の分析といったマーケティングの視点からの必要性であったり、もっといえば活動の指標として、より客観的な資料提示のためにアンケートを取りたいということはありますので、アンケートを取ること自体に意味がないということではありません。アンケートには、作品についての率直な感想が書かれている場合もあれば、関係者への労いをベースとしたもの、時には作品から離れて自身の過去の思い出話を書き連ねているものまであります。私自身の経験から考えても、自分の考えと発信した言葉が100%一致していることはほぼ無いように思いますので、その意味では声にならない「声」というものがあり、舞台芸術においてはそのような「声」への感度が重要なのではないかと思っています。

 たとえば公演会場で観客の様子を注意深く見れば、この観客はつまらなそうにしている、あの観客は集中して観ている、ということは見えてきますし、黙って作品を観ている観客から多くの見えない情報を受け取ることは可能だろうと思います。観客の要求に応えるのではなく、観客の「声」を聞くこと。そして、まずはそのような声を聞くために「耳をすます」ことが今最も必要なことなのかもしれません。舞台芸術が「今現在」という時間と空間を観客と共有し、目に見えない膨大な情報を感受し合っているという現実を忘れてはならないのではないでしょうか。

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