ロシアの劇作家、チェーホフの短編喜劇『結婚申込』は、2023年に当団体が開催した夏のワークショップにおいて創作作品として取り上げたこともあり、私にとって思い出深い作品の一つです。この作品は、隣人の娘に結婚申し込みに来た男が、相手の娘と土地所有を巡って口論になり、諍いが拡大していくという内容です。喜劇として描かれている作品ですが、昨今の世界情勢を思うと笑ってばかりもいられない複雑な心境になります。領土問題は人類が長い歴史において幾度も繰り返してきた問題ですが、『サピエンス全史』を書いたユヴァル・ノア・ハラリによれば、人類が定住し農耕を始めたことで小麦のストックが始まり、そこに格差が生まれたことが「争い」の起源であると述べています。「所有」が争いを生むという人間の特性をチェーホフはよく捉えていたのではないでしょうか。実際に私たちが行った上演では韓国人俳優と日本人俳優が混在して行われましたので、「争い」と「和解」の繰り返しが妙なリアリティーを生む上演になっていました。私はここに演劇というものの豊かさがあるように考えています。演劇史を振り返れば、時代や国も違う人間がそれぞれの時代や場所において、あらゆる工夫をして生きてきました。私たちはその先人の「工夫」を「今を生きる」ということに活用できないだろうか、そして、演劇がその工夫を実感として扱うことに最も適しているのではないでしょうか。原作では、結婚しても争いが続くであろうことがほのめかされつつ、このカップルの間にはいる父親の皮肉な祝杯で幕を閉じます。中東やウクライナといった場所で生じている「争い」の中で私たちはどのような「祝杯」を生むことができるのか。今こそ、ロシア人であるチェーホフの「工夫」を活用できるのではないかと私は考えています。
MMSTキュレーターの古賀裕奈が、週に1度、日々の活動や社会との接点のなかで生まれた問いを思考のメモとして書き留めている場所です。 すぐに答えが出ることはありません。 それでも、考え続けることを手放さず生きたいと思います。
2026/03/11
劇場・稽古場・自己の公共性
MMSTは、2007年に奈良県天川村にある古民家を改装し占有アトリエを構えました。その後、代表が福岡に移住したことを機に2015年には福岡市内に団体事務所兼稽古場を構え、2021年には大川市に稽古場や滞在スペースを保有した劇場を立ち上げました。 天川村のアトリエは残念ながら昨年閉鎖することになりましたが、私が創作環境の重要さを初めて教えられた大切な場所でした。 稽古場を構える前は、公共施設や有料スタジオをレンタルして活動していましたが、占有ではない場所を利用する場合、利用時間の制約や舞台で使用する道具を置いたままにできないなど、様々な制約に縛られます。 そして何より利用料金という経済的な問題は活動の存続にとって深刻なことでした。 MMSTでは総合的に考えて自分たちの「場」を持った方が有益だろうという判断から占有稽古場を持つに至りました。越えるべき問題は多々ありつつも、これまでなんとか運用を継続しています。 稽古場を持ち続けることには確かに様々な努力が必要ですが、毎回稽古場を確保できるか、利用時間内に練習を終えられるかといったストレスからは解放されますし、本番に近い形で舞台セットを組んだり、テクニカル的な調整も行えたり、24時間体制で試行錯誤できる空間があるということはやはり創作において大きなメリットと言えます。 そして、昨年行った天川村アトリエの最後の公演で、国内外から関係者が集い共通の思い出を語りあう光景を目にし、「占有とは閉じられると同時に拡がる」ということであり、ここに「公共」ということの実態があるのではないかと強く感じました。 効率や稽古の質という問題だけではない、その「場」に集まった人々それぞれが持つ自己の体感の蓄積、そして、そこから拡がっていく関係性の中に、集団芸術、空間芸術と言われる演劇にとって重要な要素があるのだろうと思います。
2026/03/02
観客と対峙する気概 〜他者への畏怖と敬意〜
以前MMSTが公演で韓国を訪れた際、大道芸人やストリートミュージシャンが集まり、観光客で賑わうある街道に立ち寄ったことがありました。同行していた韓国俳優がそのパフォーマンスを見て、「バッ!パッ!がないですね」と私に話してきました。MMSTの稽古においてよく演出が使う表現で、要は観客に対し「見てください」という受け身の姿勢では関係性自体が弱くなってしまうので、まずは「見ろ!」という能動的な姿勢で舞台に立ちなさい、という話なのですが、それを実現するべく試行錯誤を繰り返す中で、全てが「バッ!」の中に濃縮され創作者同士の共通言語となって使われています。また、別の韓国俳優は、自身が出演した公演について次のように話ました。「今回観客の集中を感じてとても怖くなった。しかし、その集中に対して、こうしてやる、こうしたらどうか、と必死に応答を繰り返し続けたところ、まるで会話をしているような感覚があってなんとも言えない感じだった」。私はこのような何気ない発言の中に観客や空間と対峙する俳優の凄まじい「実践」の積み重ねを感じ、俳優という人間が行う仕事の奥深さを感じました。二度と同じ瞬間は来ないという特殊な環境下で「何を考えるかわからない他者(=観客)に対峙する」ということへの畏怖と敬意、そして、そこに正面から対峙する為の確かな研鑽を積んだ人間(=俳優)が、人間自体の役割がボヤけ始めてきた現代という不確かな時代には大きな意味を持つのではないでしょうか。