映画やドラマ、音楽などの分野において、企画の立ち上げ、資金調達、出演者や各スタッフとの調整、予算やスケジュールの管理などを担う役割の人は、一般的に「プロデューサー」と言われています。舞台芸術分野でも同様ですが、日本の舞台芸術の中でも特に小劇場業界では「制作者」と呼ぶことが多いのではないでしょうか。役割としてはほとんど「プロデューサー」ですが、カンパニーによっては役割や責任を細分化しているために、「プロデューサー」という言葉をあえて使わないというところもあると聞きます。私が小劇場業界に入ってまだ間もない頃、ある先輩制作者から「制作者ってお母さんみたいなものだよね」と言われたことがあります。確かに、全体的な進行管理を意識しながら場合によっては各所で関係者をけしかけたり、公演時には裏では食事の手配、表では観客のために右往左往し、時には俳優の悩みまで聞く先輩制作者を見ていると、お母さんと称されるのも納得がいきます。私自身、しばらくそれが日本における「制作者」のあるべき姿なのだろうと思っていました。しかし、韓国との交流事業をおこなった時のことです。通常の公演時のように昼食のお弁当を用意していると、お弁当を取りにきた韓国俳優が私にお弁当を用意してくれたことの感謝とともに「あなたは食べたんですか?」と聞いてきました。まだ食べていないと答えると「ではまずあなたが選んでください」と言われました。当時制作者の立場では、お弁当はその公演に関わる全ての関係者に渡った最後に手に取るべきという暗黙の了解があったため、とても驚いたのを覚えています。 その俳優が特別に気を遣うタイプの俳優なのだろうと思ったのですが、その後、別の韓国俳優とも全て同じ問答を繰り返すことになりました。韓国人の配慮はすごいななどと思い、その感動を韓国側の制作者(韓国では一般的にプロデューサーというようです)に話したところ「プロデューサーだってプロジェクトの一員として同じ立場なんだから当然でしょう。なぜ感動するのか。」と不思議な顔をして言われました。 その時、私は「同じ立場」ということをどこかで忘れてしまっていたのだと反省しました。もちろん、これは「制作者もお弁当を率先して取るべき」などという話ではありません。制作者でもプロデューサーでも、あくまで、作品のために自分はどのような役割を引き受け、責任を持って遂行するかという意識の持ち方なのだということをあらためて考えさせられました。「集団で作品を作る」ということは、その為に必要なことへの意識が共有され、その中で自分がどの役割を引き受けるのか、そしてそれはそれ以外の役割を引き受けている人や仕事に対する敬意と共に進めるということなのではないでしょうか。以来私は制作者も創作の一員である、として責任による緊張感は高まるものの、胸を張って業務に取り組むようになりました。これは舞台芸術にとって非常に重要なことなのではないでしょうか。
MMSTキュレーターの古賀裕奈が、週に1度、日々の活動や社会との接点のなかで生まれた問いを思考のメモとして書き留めている場所です。 すぐに答えが出ることはありません。 それでも、考え続けることを手放さず生きたいと思います。
2026/05/25
義理人情の終焉
数年前にMMSTが韓国で公演した際、荷物が多く劇場から空港までの移動に難を要したことがありました。出演者やスタッフの人数も考えるとタクシーを何台用意したらいいものかわからず、頭を抱えて現地の友人に相談したところ、過去にMMSTが関係した俳優やスタッフに状況が伝わり「何を水臭いことを」と言わんばかりに、車持参で次々と韓国の演劇人が現れて空港まで荷物とともに送ってくれました。見送りのためだけに空港まで来てくれた俳優もおり「忙しいのに悪いね」と話したところ「当たり前ですよ、家族じゃないですか」と平然と返されました。「釜山は福岡と近いからいつでも会える」と軽く考えていた私にとって、自分自身の中に薄れていた「義理人情」という言葉を強く思い出させられた経験でした。韓国の人々には宗教や文化的な背景から、親しくなると「家族と同じだ」という感覚があるらしく、実際の血縁家族の関係でさえ希薄になりつつある日本の状況からすると、なかなか羨ましい人間関係が作られていると思います。かつては日本の美徳とされていた義理人情でしたが、現在の日本社会ではどうでしょうか。「社会的ルールを重んじる日本人の礼儀正しさ」は、災害時においては今でも世界的な賞賛を受けることがありますが、残念ながら日常生活において胸を張れるほどのことが少なくなってきているように思います。私自身の行いを考えても、強く意識しなければ韓国人の「当たり前」のように義理を通すことができなくなっているように思っています。単純なギブアンドテイクではなく「困っているならお互い様」という感覚で関係し合うことは、やはり重要なことなのではないでしょうか。時間の無駄、お金の無駄、そしてそのような「無駄」を省くことが価値とされる現代社会では残念ながら「義理人情」は終焉を迎えつつあります。私はそこで終わりつつあるものを憂いて流れに抗ったり現状を悲観的に見物するのではなく、「終わり」からの「始まり」として、私の考えるこれからの「義理人情」を始めていくことにしました。人生に悔いを残さないよう、私にできること、やるべきことを粛々と実行していきたいと思います。
2026/05/18
恥も外聞もない、を考える。
私がまだ幼い頃、祖母はよく「おてんとうさまが見てるからね」と言っていました。私への躾の一環で言うこともあれば、祖母自身が自らの行動を律しているようなところもあったようです。祖母がいう「おてんとうさま」は、ある種の信仰心ということには変わりませんが、実際のところ誰かの目、つまり他者を意識し続けるということなのだろうと思います。隣近所や地域的な結びつきが強かった時代には周囲への意識や配慮が当たり前にあったと思いますが、家族の中でさえ個別化されてきている現代では、周囲よりも個人のことを考える時間ばかりが肥大しているように思います。「先ずは自分のことを考えてからでなければ他人を思いやることはできない」という言説は、いつの間にか「正当な考え方」という風潮に変わってきています。この「まずは自分のこと」という内向きな思考の中で考えることが優先されていくと、「恥も外聞もない」世界がどんどん加速してしまうのではないでしょうか。ニュースをみていても見本となる大人が減っていると感じることが増えました。子どもに恥ずかしくない大人としての姿を見せられるのか、という意識をどれくらいの人が持てているのでしょうか。自分自身を振り返っても、余裕がなくなると知らず知らずのうちに自分のことを優先させてしまい、考える範囲が狭まってしまうことが少なくありませんし、結果いいようには決してなりません。そういう時にこそ、一旦立ち止まって他者を意識できると、視野も広がり、周囲との関係もうまくいくことが多いのではないでしょうか。「恥も外聞もない」世界をなんとか食い止めるため「まずは自分」という意識とは別に「他者に誇れる自分」というものを確立していく必要があるのだと思います。舞台芸術、特に集団芸術である演劇は「他者」を考えずには決して成立し得ないものであり、そして、そうであるが故に今こそ重要な意味をもつのではないでしょうか。
2026/05/11
演劇作品の質 〜反復によって固められた退屈な時間〜
演劇にあまり馴染みのない人からすれば、演劇公演では再現性が重要だと思う観客が多いかもしれません。観客だけでなく、演劇関係者の中でも、いかに台詞や段取りを間違えずに再現できるかを追い求めている人も少なくないと思います。実際、特に俳優は公演に至るまでに多くの時間をかけて稽古を重ね、何度となく同じ台詞や動き、出演者らとのやりとりを体に染み込ませていきます。私はかつて俳優もテクニカルスタッフも公演でも練習と同じように再現できることがプロフェッショナルな仕事なのだと漠然と考えていました。ところが、MMSTの稽古に初めて参加した頃、演出家が「俳優は時間と空間をつくることが仕事である」こと、「瞬間瞬間を生きる」という趣旨の話をしているのを聞き、理屈ではわかる気がするものの実際にはどういうことなのか困惑したことを覚えています。約10年ほど前になりますが、MMSTがとあるプロジェクトに参加して演劇系の大学に通う学生らと共に演劇作品を創ったことがありました。稽古中、学生の一人が語るモノローグのシーンで1時間以上停滞したことがありました。彼女は不真面目というわけではなく、何度も同じ台詞を同じように語りましたが、演出からはそこにむしろNGが出続けます。演出曰く「覚えてきた台詞のリズムを繰り返しているに過ぎない」とのことでした。立ち会っていた私も、その時演出の指摘がいまいちよくわからないまま、ひたすら繰り返される光景が苦痛の時間となっていきました。その重い時間のなか、その学生がそれまでとは違う言葉を発した瞬間がありました。それまで繰り返された音とは確かに違う「聞こえる」言葉でした。その時に初めて演出が「そうだ」と言い、ようやく次のシーンへと進みました。この時、「今」という時間と空間の中で「必要な言葉」というものがあるのだということを体感的に知る機会になりました。俳優は台詞を覚えなければならないものの、それを知らず知らずにリズムとして覚えてしまうと実際に舞台上で必要とされる時間と空間とは関係ない言葉として発せられてしまいます。それらはただの段取りにしかなりません。台詞を完璧に覚えること自体に意味はないことは明らかですが、特に日本の演劇教育の乏しさ故か、台詞を間違えずに言うことに優先度が高くなることがしばしばあるようです。何度となく創作を共にしている韓国俳優らはこの前提が全く違います。初めて彼らと共同制作をおこなった際に練習期間中も毎回台詞や段取りは同じにも関わらず、確実に違う時間と空間を立ち上げていることを目の当たりにして、とても驚かされました。そして、毎回違う作品をみるかのような練習にワクワクさせられました。彼らの作品創作の前提は「同じことがない」ということにあるのかもしれません。そのような「今」という時間と空間と対峙するために反復練習をおこなうということなのだと思います。プロのスポーツ選手が練習を欠かさないことと同様に、作品の質を上げるためには反復練習は必須であるということは明らかだと思いますが、それは間違わないために固めるためのものではないということを先の例の学生や韓国俳優との取り組みのなかで気付かされました。これは演劇にとって極めて重要なことなんだと思います。
2026/05/04
降板のハードル 〜制作者の視点から〜
かつて俳優の「降板」は相当な継続不能の理由があってのことという認識が演劇関係者の中で共有していたように思います。「親の死に目に会えなくとも幕を開けることを優先する」ことが美学として語られていた時代もありましたし、実際にそれが舞台に立つ覚悟というものだと一昔前にはまだ当たり前のように言われていた話でした。ともかく、かつては降板のハードルは非常に高かった。しかし、近年はこの降板のハードルが徐々に下がってきていることは否めません。特にコロナ禍以降加速しているように感じます。単純に病気や怪我を理由とした降板というよりも、人間関係の拗れなど個々人のパーソナルな理由での降板が増えていることが気になります。制作者の立場からも「降板」というネガティブな状況は、可能な限り避けたい事案の一つです。すでに世に出ている公演情報の修正はもちろん、降板する俳優の出演、作品を楽しみにしている観客への対応、返金問題とその段取りなど様々な業務も増えますし、何よりその作品が当初の目指すべき状態ではなくなるという事態にスタッフを含め多くの人が巻き込まれていきます。演劇は「関係性の芸術」といわれるように、公演という一つのパーティーが組まれた時から一個人の問題ではなくなるはずです。それでも最近では俳優という前に一個人の問題への比重が大きくなっているようで、降板理由を聞いても首を傾げたくなるような例も少なくありません。昨今はハラスメントをはじめとした創作環境への配慮も重なり、様々なことへの判断を迷う状況であることは承知していますが、「降板」と聞くと私は降板によって多くの影響を伴うそのその集団の思いや状況を想像してしまい胃が痛くなります。
私は降板のハードルはある程度高い状態にしておくことが舞台芸術の質を上げることに繋がると思います。それは、当然俳優だけの意識の問題ではありません。スタッフを含めたその集団全体の意識が高い状態でキープされることによって、個人の問題だけを考えることを遠ざけ、結果作品クオリティも上がると思うからです。プロスポーツ選手を例に考えればわかりやすいですが、ある特殊な世界の中で生きるためには日常的な価値観は括弧に入れなければ成立しないはずです。誰でもが簡単にできない専門性をもつからこそ舞台に立てるという前提にたてば、降りやすいという意識を醸成してしまうことは、自分たちの外からの見られ方を落としてしまうことにもなりかねません。個人の問題ではない、という関係性の中でどれくらい生きられるかがこれからの演劇には益々必要な意識なのだろうと思います。