2026/05/04

降板のハードル 〜制作者の視点から〜

 かつて俳優の「降板」は相当な継続不能の理由があってのことという認識が演劇関係者の中で共有していたように思います。「親の死に目に会えなくとも幕を開けることを優先する」ことが美学として語られていた時代もありましたし、実際にそれが舞台に立つ覚悟というものだと一昔前にはまだ当たり前のように言われていた話でした。ともかく、かつては降板のハードルは非常に高かった。しかし、近年はこの降板のハードルが徐々に下がってきていることは否めません。特にコロナ禍以降加速しているように感じます。単純に病気や怪我を理由とした降板というよりも、人間関係の拗れなど個々人のパーソナルな理由での降板が増えていることが気になります。制作者の立場からも「降板」というネガティブな状況は、可能な限り避けたい事案の一つです。すでに世に出ている公演情報の修正はもちろん、降板する俳優の出演、作品を楽しみにしている観客への対応、返金問題とその段取りなど様々な業務も増えますし、何よりその作品が当初の目指すべき状態ではなくなるという事態にスタッフを含め多くの人が巻き込まれていきます。演劇は「関係性の芸術」といわれるように、公演という一つのパーティーが組まれた時から一個人の問題ではなくなるはずです。それでも最近では俳優という前に一個人の問題への比重が大きくなっているようで、降板理由を聞いても首を傾げたくなるような例も少なくありません。昨今はハラスメントをはじめとした創作環境への配慮も重なり、様々なことへの判断を迷う状況であることは承知していますが、「降板」と聞くと私は降板によって多くの影響を伴うそのその集団の思いや状況を想像してしまい胃が痛くなります。

 私は降板のハードルはある程度高い状態にしておくことが舞台芸術の質を上げることに繋がると思います。それは、当然俳優だけの意識の問題ではありません。スタッフを含めたその集団全体の意識が高い状態でキープされることによって、個人の問題だけを考えることを遠ざけ、結果作品クオリティも上がると思うからです。プロスポーツ選手を例に考えればわかりやすいですが、ある特殊な世界の中で生きるためには日常的な価値観は括弧に入れなければ成立しないはずです。誰でもが簡単にできない専門性をもつからこそ舞台に立てるという前提にたてば、降りやすいという意識を醸成してしまうことは、自分たちの外からの見られ方を落としてしまうことにもなりかねません。個人の問題ではない、という関係性の中でどれくらい生きられるかがこれからの演劇には益々必要な意識なのだろうと思います。 

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