2025/07/29

道がない方を考える視点

 わからないことや問題にぶつかった時、様々な情報が簡単に手に入る昨今では、過去に誰かが作った方法論や技術を容易に参考にすることができます。道がない方よりも、すでにある道を歩く方が、過去の結果も踏まえ予想できることも多く、リスクを最小限に抑えられると考えられるため、多くの人が選びがちです。そのような中で、あえて「道がない方」を選択する人がいます。芸術家はその最たる例だと思います。また、発明家、起業家にもこのタイプが多いのではないでしょうか。MMSTの代表も「道がない方」を進むタイプですが、私は代表の言動や何人かの起業家の話を聞く中で、これらの人に共通する視点があることに気がつきました。それは「今」という現在性に軸があるかどうか、です。このタイプの人が共通して話すことには、「過去を考えても取り戻せないこと、未来をどんなに予測してもそうなるとは限らないこと、そこに時間を割いても仕方ないのだから、「今」をどうするかに集中することで、新たな道が見出せる」のだといいます。すでにある道をとることによる安全性やリスク回避は、今現在とは実質関係がなく、今を生きていることにはならない、ということです。道がない方を考える視点は「今をどうするか」という価値を過去や未来への優先度よりも高く持ち続けられるかであり、そのことが自力で考え、未来を切り開く力になるのだと思います。

2025/07/21

執着のエネルギー

 私の祖母は95歳で亡くなりましたが、生前、健康に対しての関心が人一倍高い人でした。その関心度合いはほとんど「執着」といえるほどでした。時折、祖母は戦中戦後の貧困体験から、平和な時代になっても衣食住への執着が消えないことを語っていました。私はその延長線上に健康でいることへの執着があるのだろうと漠然と考えていました。一方で、なぜ健康でいることへの執着が、何十年も毎日欠かさず運動するエネルギーになるのだろうという不思議さもありました。「執着」はエネルギーになるのだろうと短絡的に考えていましたが、もう一歩深く考えてみると、祖母の責任感とセットで考えると腑に落ちるところがあります。祖母は小学校低学年の頃に母を亡くし、戦中の状況もあってまだ幼いながら一家の大黒柱にならざるを得なかったと聞いています。祖母が後年「人様に迷惑かけずにぽっくり死にたい」とよく話していたのも、そうした幼少期からの「私がしっかりしなければ」という責任感からくるものだったのではないか。そのように考えると、「執着」はある種の責任感の中で持ち得るのかもしれないと思います。「こうなりたい」もしくは「こうならないようにしたい」ことへの執着は、自分の中から生みだすものというより、責任という関係の中からも生まれうるもので、実際にその関係の中で、物事を継続したり、達成するためのエネルギーに繋がるのかもしれません。

2025/07/13

ブーメランの意識

 少し上の世代の方々から、「人のダメなところを指摘したり揶揄しておきながら、言った本人も同じことを平気でやる人がいる」、という言葉を聞くことが増えました。確かに政治家のスキャンダル一つをとっても、問題を追求していた議員が次の瞬間に全く同じスキャンダルで叩かれるという姿を目にすることも珍しくありません。「人に言ったからには自分はしっかりしなければ」という意識が当たり前だった時代を考えれば、昨今の状況は、いわゆる他者との相互関係が弱い、保護下にある子供ような意識が蔓延している状態と言ってもいいかもしれません。「人に言ったからには」という意識は、相手を通して自分への戒めとなり、自己鍛錬の機会になっていたとみることもできます。MMSTでも、このことをブーメランにたとえて「投げたブーメランを回避できるか?」という意識が問題にされることがあり、「自分は言われたくないから言うのは辞めよう」という態度の危険性も同時に指摘されます。極めて深刻なことは、これらの問題意識の欠落は「成長の機会」の喪失に他ならないということです。ダメなものはダメだと言い、「人に言うからには」という関係意識によって自分の言動を見直し、問題があれば正すという姿勢が成長にとって重要なのだと思います。投げたブーメランの先が鋭く自分に突き刺さるイメージを持って物事に望めているか、そして、実際に堪えきれるかどうかが子どもと大人の境界線なのだろうと思います。

2025/07/07

動いて考える難しさ

 ある起業家が「準備ができたらなんて考えてないで、とりあえずやりながら考えればいい」という話をしていました。これは起業家に限らず物事を動かしている人たちの中では当たり前の考え方のようです。シンプルで一見簡単そうなことに思えますが、私自身、足踏みしてしまうことが多いです。どこでつまずいてしまうのか、動きづらくしている原因は何なのでしょうか。最近、仕事でやり方がわからない事がありました。先に事例を調べて準備をしようと思いましたが、「やりながら」という話が頭をよぎり、わからないが一旦進めることにしました。進行中は色々な問題にぶつかり、その度に「対応しつつ考える」を繰り返し、物事は慌ただしく進んでいきました。周囲から冷ややかな目を向けられることもあり、正直「やはり準備をしておけばよかった」という考えが浮かびましたが、何故か違和感もありました。「言い訳」かもしれないということです。その場でできないことへの言い訳。この言い訳が癖になっている場合、「動きながら考える」が難しくなるのではないかと思います。実践的な取り組みを、その場の決断力や実行性の質ではなく過去の準備にのみ求めることは、やはり「今」という現実を取り逃がしたピントのズレた対処を積み重ねることになってしまいます。「動いて考える」を難しくしているのは、「言い訳」によって「今」という瞬間を過去や未来に取り逃がしてしまう曖昧な時間感覚なのかもしれません。

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