少し上の世代の方々から、「人のダメなところを指摘したり揶揄しておきながら、言った本人も同じことを平気でやる人がいる」、という言葉を聞くことが増えました。確かに政治家のスキャンダル一つをとっても、問題を追求していた議員が次の瞬間に全く同じスキャンダルで叩かれるという姿を目にすることも珍しくありません。「人に言ったからには自分はしっかりしなければ」という意識が当たり前だった時代を考えれば、昨今の状況は、いわゆる他者との相互関係が弱い、保護下にある子供ような意識が蔓延している状態と言ってもいいかもしれません。「人に言ったからには」という意識は、相手を通して自分への戒めとなり、自己鍛錬の機会になっていたとみることもできます。MMSTでも、このことをブーメランにたとえて「投げたブーメランを回避できるか?」という意識が問題にされることがあり、「自分は言われたくないから言うのは辞めよう」という態度の危険性も同時に指摘されます。極めて深刻なことは、これらの問題意識の欠落は「成長の機会」の喪失に他ならないということです。ダメなものはダメだと言い、「人に言うからには」という関係意識によって自分の言動を見直し、問題があれば正すという姿勢が成長にとって重要なのだと思います。投げたブーメランの先が鋭く自分に突き刺さるイメージを持って物事に望めているか、そして、実際に堪えきれるかどうかが子どもと大人の境界線なのだろうと思います。
2025/07/13
2025/07/07
動いて考える難しさ
ある起業家が「準備ができたらなんて考えてないで、とりあえずやりながら考えればいい」という話をしていました。これは起業家に限らず物事を動かしている人たちの中では当たり前の考え方のようです。シンプルで一見簡単そうなことに思えますが、私自身、足踏みしてしまうことが多いです。どこでつまずいてしまうのか、動きづらくしている原因は何なのでしょうか。最近、仕事でやり方がわからない事がありました。先に事例を調べて準備をしようと思いましたが、「やりながら」という話が頭をよぎり、わからないが一旦進めることにしました。進行中は色々な問題にぶつかり、その度に「対応しつつ考える」を繰り返し、物事は慌ただしく進んでいきました。周囲から冷ややかな目を向けられることもあり、正直「やはり準備をしておけばよかった」という考えが浮かびましたが、何故か違和感もありました。「言い訳」かもしれないということです。その場でできないことへの言い訳。この言い訳が癖になっている場合、「動きながら考える」が難しくなるのではないかと思います。実践的な取り組みを、その場の決断力や実行性の質ではなく過去の準備にのみ求めることは、やはり「今」という現実を取り逃がしたピントのズレた対処を積み重ねることになってしまいます。「動いて考える」を難しくしているのは、「言い訳」によって「今」という瞬間を過去や未来に取り逃がしてしまう曖昧な時間感覚なのかもしれません。
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