私の祖母は95歳で亡くなりましたが、生前、健康に対しての関心が人一倍高い人でした。その関心度合いはほとんど「執着」といえるほどでした。時折、祖母は戦中戦後の貧困体験から、平和な時代になっても衣食住への執着が消えないことを語っていました。私はその延長線上に健康でいることへの執着があるのだろうと漠然と考えていました。一方で、なぜ健康でいることへの執着が、何十年も毎日欠かさず運動するエネルギーになるのだろうという不思議さもありました。「執着」はエネルギーになるのだろうと短絡的に考えていましたが、もう一歩深く考えてみると、祖母の責任感とセットで考えると腑に落ちるところがあります。祖母は小学校低学年の頃に母を亡くし、戦中の状況もあってまだ幼いながら一家の大黒柱にならざるを得なかったと聞いています。祖母が後年「人様に迷惑かけずにぽっくり死にたい」とよく話していたのも、そうした幼少期からの「私がしっかりしなければ」という責任感からくるものだったのではないか。そのように考えると、「執着」はある種の責任感の中で持ち得るのかもしれないと思います。「こうなりたい」もしくは「こうならないようにしたい」ことへの執着は、自分の中から生みだすものというより、責任という関係の中からも生まれうるもので、実際にその関係の中で、物事を継続したり、達成するためのエネルギーに繋がるのかもしれません。