2025/10/26

演劇市場と文化政策

「演劇市場は小さい」

 多くの関係者が共通認識として持っている現実です。平たくいえば、お金がないということですが、実際、演劇の中でも小劇場と言われる分野では経済的な苦況を抱えながらなんとか活動を続けている人が多いだろうと思います。最近、日本で有名な実業家やタレントが多様なアイディアを駆使し独自の演劇企画を実施して興行的な成功をおさめている事例が増えてきました。それらの成功例は小劇場界の発想力の乏しさと実行力の弱さを突きつけられているようでもありますが、どこかで「別物だから仕方がない」と自分を納得させている部分があるようにも思います。「収益の物差しだけでは測れないものが舞台芸術にはあり、それが社会に有用だ」という主張がこのような状況下では、より声高に叫ばれるものですが、単に「負け惜しみ」にならない為には、もう一歩踏み込んで考える必要があるのだと思っています。現代では何かを実行する際に常に根拠を求めるエビデンス主義が当前とされてきています。実施による効果がどのくらい見込まれ、有用であるかを明示した上で初めて実行に移すという堅実なスタンスであり、舞台芸術業界でもこの考えが一般的となってきているように思います。そして、基準も単に集客人数や収益という観点だけではなく、「子供の教育に役立つ」や「障害者の支援」なども根拠とされています。いずれにせよ、実施対象が明確であり、見返りも分かりやすくはありますが、その一方、狭い範囲で考えられ過ぎているとも言え、ここが市場の拡大を拒んでいるともいるとも言えるのではないでしょうか。私はむしろ「社会にとって有用ではないが必要なのだ」と自らの責任において発言できるかどうかが重要だと考えています。「根拠」に頼らず「目指すべき未来のビジョン」を提示し、自らの主張として責任を負い説得していくという姿勢が必要なのではないでしょうか。私はまず、そのような視点にたって市場拡大を目指す文化政策を立てることが急務ではないかと考えています。不満をこぼし続けるのではなく、諦めずに現実の変革を実践していきたいと思います。

2025/10/20

メディアとしての演劇

 2011年におきた東日本大震災ではテレビやラジオに変わってSNSが活躍しました。その後、大衆のコミュニケーションツールとして広く認知されることになり、現代ではなくてはならない社会インフラの一つになっています。公共的なものから個人が何を食べたというパーソナルなものまで、真実と嘘が入り混じった大量の情報が扱われ、私はその洪水の中に流れる「時間」のスピードに圧倒されることがあります。演劇がかつて国や政治を考えるための公共的なメディアの役割を果たしていた時代もありますが、瞬時に世界中と情報を共有できる現代のネットワーク社会において、演劇は時代錯誤のように捉えられているかもしれません。しかし、本当にそうなのでしょうか。私はこうした情報が溢れる時代にこそ、演劇を活用する機会があるのではないかと考えています。それは演劇が扱う「情報」の特殊性に関係しています。演劇は少なくとも一定時間半ば強制的にそこに集る観客と時間と空間を共有し、目には見えないけれども確かに存在するその場の「情報」を扱っていきます。ここで共有されている「今」という感覚、より詳細に述べるならば「私だけのものではない、私の時間」という微妙な感覚は、いつでも自分の都合で切断することができるSNS上の「時間」とは違い、人が社会的な物事を考える上で実はとても重要なものなのではないかと考えています。SNSの便利さが生活を豊かにしていることは確かですが、人間機能を最大に活用することによってはじめて成り立つ「メディアとしての演劇」にも役割はあるのではないでしょうか。

2025/10/13

観客とは誰なのか?

私がまだMMSTに所属する前のことですが、岐阜にある可児市文化創造センター館長の衛紀生さんによるアートマネージメント講座に参加したことがありました。劇場と地域、そこに集う人々についての実践的な内容で、私にとって発見や学びの多い機会ではありましたが、なかでも「観客とはどのような人か」を明確にしていない自分に気付かされたことは大きかったと思います。「観客」とは誰なのか?キュレーターとして作品をこういう人に見せたいと考えておきながら、集客のためにチラシや広報物を配布する際には近視眼的になり「観客」を矮小化してしまう、という経験を繰り返してきました。親兄弟、友人知人、演劇好き、出演者のファン、演出や劇作など上演作品に関心がある人、劇場の会員、など、「観客」を漠然としたイメージの中で考えてしまうのです。ある時、代表から、作品とどのような人を繋ぎたいのか、と問われ、「やりたい理想」と「やっている現実」のアンバランスさの中で回答に窮し、冷や汗をかいたこともあります。「集客」という現実の前で理想としての「観客」がボヤケてしまうのです。では「観客」を明確化すれば良いかというと、それほど単純でもありません。例えば、助成を受けたり、行政機関が主催する事業に関わると、教育や福祉的な観点への期待と要望が高く、対象が定まっていると言えば定まっています。貧困家庭の子ども、子育て中の親、高齢者、障がい者、簡単に外出が難しい人、ホームレスetc..にどういう機会を提供するのか、社会から排除されがちな人々に配慮し、取りこぼさない社会を目指そうとするいわゆる「社会包摂」という考え方が言われはじめて久しいですが、私はここにも違和感を抱いています。勿論、この考え方自体は悪いことだとは思いませんし、税金を財源とする行政機関が「社会包摂」を主張しようとする立場もわかります。しかし、社会の包摂が「誰にでも開かれた劇場や作品を目指すべきことだ」と言われると、やはり「観客」というものが霧の中に隠れていってしまうように思えるのです。 日本の公共ホールが多目的に利用できる施設を目指したがために、どこにでもあるような主張のない施設ばかりになってしまったように、個性を尊重していたつもりが、個性を潰してしまうといったことはよく起こります。様々な事情で、公演や展示、コンサートなどに行きたくてもアクセスが難しい人々がいるのは確かです、しかし安易に「誰もが楽しめる」や「誰もが参加できる」ことを目指すことが、そのような問題に対する答えになるのかどうかは落ち着いて考えるべきなのではないでしょうか。芸術には、ある常識とされる価値観に「本当にそうなのか」という疑義や「(私たちは)こう考える」という主張を投げかけて問題提起をする側面があります。立場によってこれらは「暴力」と受け止められてしまうこともありますが、誤解を恐れずに言えば、医者が患者を救う際に場合によっては麻薬を使用するように、芸術が持つ「暴力」を社会に対して有効に活用していく、といった試みが必要なのではないでしょうか。社会包摂を考えるならば、「包摂」が持つ暴力性を自覚し、且つそれが一体誰にとって必要なのかを考え抜くこと。そのような問題を問い続ける思考と実践の中に「観客」が生まれていくのだと私は考えています。 創客とはそのような地平でこそ考えられるべきことなのではないでしょうか。

2025/10/05

助成金によって生まれる豊かさとは何か

文化芸術分野における助成金の申請時期になりました。MMSTでも毎年、各所に助成申請をおこなっています。私が初めて申請したのは約20年ほど前になりますが、当時は「活動するための資金が足りないので支援がほしい」という程度の心持ちだったと思います。「助成を受けること」について、そこまで深く考えてはおらず「単純にお金さえもらえれば良い」という子どものお小遣いのようなスタンスでしたので、今思い返せば一端の大人が恥ずかしい限りです。ある頃から「助成金によって何が可能になるのか」という問いを設ける助成元が増えたように感じます。この活動が社会に対してどのような影響を与えるのか、活動する側が当然考えていなければ、趣味の延長と言われても仕方がありませんので、真っ当な問いだろうと思います。経済的に赤字が少なく済むこと以外に何がもたらされるのでしょうか。以前採択された助成元の代表者が「私達は助成した芸術団体と共闘関係だと考える」とのスピーチをなさいました。私はそれを聞いて心強く思ったことを今でも覚えています。助成金とは「ここに必要な価値がある」と訴える旗印のような役割をするものだと私は考えてます。その旗がなければやれないというような軟弱な態度では勿論いけませんが、自分たちの活動が社会にどのような影響を与えるか、そして何故そのような影響がこの社会にとって必要なのかを旗を振って提示し、説得し共闘関係を広げていく仕組みなのだと思います。どのような活動にも資金は欠かせませんし、資金のバックアップを受けてできることが広がるのは事実です。しかし、資本主義社会の中で、ともすれば切り捨てられてしまいそうな芸術活動に、あえて資金を投入すること。そして、そのことによって資本の増幅だけではない価値観をしっかりと提示していくことが重要なのだと思います。助成金によって生まれるのは、お金の使用についての選択肢の多様化であり、それによって社会に生まれる新たな「利益」の創出なのではないでしょうか。少なくとも私はそのような社会に「豊かさ」を感じますし、そのような社会を実現する為に助成金を活用していきたいと思います。

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