2025/09/29

要求される役回り

 この数年来、MMSTでは韓国との交流を深めてきましたが、韓国の演劇人に「集団意識の高さ」を感じることが多々あります。演劇の創作では、劇団や活動分野が違えども集まったメンバーを1つの「チーム」としてとらえることがあり、日本でも当然行われていることではあるのですが、韓国人俳優には日本人とは少し違う意識があるように感じていました。よく言われる韓国の特色としては年齢による上下関係の厳格さになりますが、その違いだけでは説明がつかず、判然としていませんでした。

 先日、MMSTのイベントのために韓国の演劇関係者が複数人来日した時のことです。中にはMMSTとも親交の深い韓国人俳優Aさんがいましたが、到着早々、移動を含めたスケジュールやその日の夕食をどうするかなどを私に尋ねました。私としては雑談のつもりで何気なく質問に答えていましたが、その後、一行を送迎車に乗せ、滞在先に向かう道中、最年長のメンバーがぽつりと「この後どうするんだっけ」と呟きました。間髪を入れずにAさんが「それではスケジュールを話ます」と車内全体に聞こえる声でアナウンスし、先ほど私が話したスケジュールの共有を始めました。その瞬間、車内全体があっという間に「チーム」になり、初対面のメンバーがいるにも関わらず強固な連帯が形成されたのです。「今ここに必要なこと」を担う役回りをAさんは買って出たということなのだと思います。私はここに韓国の集団意識の強さの理由があるように感じました。上下関係で年下が先輩に配慮するという単純なものではなく、(実際、今回Aさんより明らかに年下のメンバーもいました)「このチームにはどういう役割の人がいると良いのか」という状況把握と、そこに対応する責任の意識が強いのだと思います。日本人にもそのような人はいますが、韓国ではより当たり前の感覚として共有されているのではないでしょうか。チームの一員としてどのようなポジションを担うのか、その位置取りの把握と実行のスピードがとても速いと感じました。私自身よく陥りがちな「自分は何をすればいいか」という自分本位の視点ではなく、「今ここで必要な役回りとは何か」という一歩引いた視点が成熟した集団意識を生むのではないかと思います。身近にあるこうした良き手本から素直に学び、私自身の日常においても実践していきたいと思います。

2025/09/25

人にふれる

2025年 9月14日、2007年より当団体が運営してきた奈良県天川村の古民家アトリエ(通称MAL)での最後の公演を終えました。山深く大変不便な場所に佇む小さなアトリエに、国内のみならず海外からもたくさんの方がかけつけてくださいました。現地の村民でさえ「僻地」だという場所に人が溢れている光景を見ながら、私は「エネルギーをかけて何かをする」ということの力をあらためて考えさせられました。私たちは公演準備とともにアトリエ退去のための復旧工事や引っ越し作業を並行しておこなっていたのですが、システム化されている都市部と違い、ゴミ処分ひとつをとっても大変な困難に直面しました。しかし、この「不便さ」から生まれる人との交流もあったのです。相談すれば1時間かけてわざわざ立ち合いに来てくれるゴミ処理場の職員、こちらの状況を汲んで処分を引き受けてくれる民間業者、気にかけてくれるご近所さん、いずれも都市部の生活においてはコストとして省略されてしまうようなコミュニケーションかもしれません。しかし、不便だからこそ「協力して生きる」ことが当たり前となっているコミュニティでは、人と人を繋ぐ重要な役割として今なおこのようなコミュケーションが生きているのです。そのような現実を前に、気付くと自分の損得や効率化を考えてなるべく労力をかけずに済まそうとしてしまっている自分自身が恥しくなりました。現代では顔がみえるやりとりを面倒に感じる人が多い気がしますし、実際私もそう感じてしまうことはあります。しかしながら、エネルギーをかけて「人に会う」という「ふれあい」を失うことは、人間として何か大きなものを失ってしまうようにも感じるのです。私達のアトリエが最後に教えてくれた「人にふれる」ことの大切さを今後も忘れずにいきたいと思います。

2025/09/16

逃げたい理屈づくりの怖さ

 今夏剣道の小中学生の全国大会の運営の一部を手伝うことがありました。大会中の武道館の通路の隅で試合後の子どもに、監督が「逃げるな」と檄を飛ばしていました。通りすがりざまのことで、具体的な状況についてはわかりませんが、MMST代表もかつて剣道の経験があり、この「逃げる」「逃げない」の話は頻繁に話に出るため、剣道の世界では「逃げてはいけない」というのは当たり前の話なのだろうと思います。日本では、通念上、「逃げてはいけない」という考え方がありますが、近年、いじめやハラスメントの問題を鑑みて、「逃げる」ことを推奨する考え方も高まってきているように思います。現実の中で追い込まれてしまうくらいならば「逃げた方がよい」という考え方があることは理解できますが、逃げることが逆に問題を深刻化させてしまう側面も考える必要があると思います。「逃げること」が癖になり、一度逃げてしまうと逃げることが常態化するという悪循環に陥る傾向がある為です。MMST稽古では、「逃げない」状況を自分でいかにつくり出せるかが問われ、それを稽古の中で実践、鍛錬していきます。人は、都合の悪いことや逃げたいことが出た時、それをやらない理屈を考えがちです。しかし、実際は、そこでやりたくないこと、怖いと思うことをやらない理由を考えて許されるのは子どもだけです。大人になればなるほど、また、「逃げてはいけない」という心理が働くほど、その理屈の付け方が精巧になり、実際は逃げている状況にもかかわらず、「それは仕方がないこと」にして、「逃げ」をわかりづらくします。最近私がこの逃げるための理屈の話において、怖さを感じたのは、「もっともらしい理屈」を積み重ねるうちに、自分自身でも「逃げている」という感覚に気づけなくなってしまうということです。冒頭の剣道の子どもたちに習えば、やはり「逃げること」は強くなるための足枷になるのではないかと思います。人は問題から逃げずに対処することで成長するのでしょうし、単純にそれまでできなかったことをできるようにするというプロセスのためには「逃げない」選択肢をとるしかないと思います。私はやらないための理屈を考えて「仕方ない」と言い続ける人生よりは、怖くてもなんとか対応する人生を選びたいと思います。

2025/09/08

時間感覚の変わる空間でつくるもの

 MMSTでは、奈良県天川村という山村で築150年を超える古民家を改装したアトリエ施設を運営してきました。「芸術家が創作に集中するための空間」というコンセプトのもと、これまで数多くの作品を創作してきました。18年運営してきた当施設も諸事情で閉じることとなり、最後に私達の代表作を上演し、その長い歴史に幕を下ろす予定です。私が初めて天川アトリエを訪れたのは2013年、既に携帯電話がどこでも繋がることが当然な時代でしたが、アトリエでは一部キャリアが圏外という状況でした(2007年開設当初は全てのキャリアが使えなかったそうです)。また、アトリエ周辺には自販機さえなく、コンビニやスーパーにいたっては車を小一時間走らせなければなりません。まさに陸の孤島です。しかし、不便ではありますが、日常とは異なる不思議な「時間の流れ」を感じた、というのが私の第一印象です。時計の進度が変わるはずもないですが、時間の進む感覚がとにかく変わっているように感じるのです。「非日常的な感覚を深めるのに適した場所」と代表がいうとおり、都市部の利便性に慣れ親しんだ日常感覚を相対化するような何かがこの場所にはあるのだろうと思います。都会で公民館やレンタルスタジオといった場所を利用し創作をする場合、使用時間や音出しなどに制限がある場合がほとんどです。しかし、天川アトリエでは使用時間はもちろん、周囲に民家がほとんどないため、たとえ夜中に大きな音を出そうが苦情を受けることもありません。何より、稽古と日常を切り替える必要が無いため、実演家にとっては身体的な集中や感覚を開いた状態で持続することができるのです。かつてアトリエに滞在した俳優がこの場所を「精神と時の部屋」と称しました。大自然と共存しているような環境が人間の都合で管理されない「時間」を感じさせるのかもしれません。このような時間感覚の変わる空間でこれまで体験してきた非日常的な「時間」の堆積を有効に活用していける新たな「創作環境」を考えていきたいと思います。

2025/09/01

国を超える意識

 今年の5月まで、足掛け3年で14回実施したMMSTheaterというトークイベントにおいて、歴史に名を残す世界的な演劇人を取り上げ、ゲストと共にその功績について討論しました。彼らが常に「世界」を意識して活動していたわけではないと思いますが、時代の規範や価値観、問題意識に対してどのように対峙し、創作によって応答していたか、という自らが生きている世界との切実な「格闘」のようなものが、時代を経ても未だに多くの人に感銘を与えている要因なのではないかと思います。MMSTでもこれまで何度か韓国や台湾など国外で作品を上演する機会がありましたが、それぞれの国の文化や価値観に違いがあることを前提に観客がどのように作品を観るのか、ということを意識せざるを得ませんでした。現在EATIという東アジア3カ国での共同制作プログラムが台湾で開催されていますが、各国から参加した演出家や俳優もまた言葉や文化の異なる人々との創作を通じて自らの立ち位置を意識せざるを得ない環境に置かれています。約3週間にわたる滞在でチーム内の関係は深まりますが、公演では観客と作品を共有する為、いわゆる「内輪」ではない外部を意識する必要があります。国内であっても海外であってもその構図は変わりませんが、海外ではより明確に「共有できない価値」が意識されることになりますので「共有できない多数の価値観に影響を与える」という外部意識に集中力を傾けられるかということがよりシビアに問われます。国を超える意識とは、分かり合えないかもしれない価値観や思想を前提に新たな関係を築こうと試みる越境精神であり、その際、見えないものを実感として扱える、という演劇の特質が非常に有効に働くのではないかと考えています。かつて、MMST代表は、国際交流事業に参加した際「交流はできない」というところからはじめなければならないと関係者に話しました。食事や飲み会で仲良くなるという交流ではなく、創作を通じて、共に見えないものと対峙し、繋がらないものを繋げていくことが「演劇的な交流」であり、そのような意識の中で国際的に活躍する人材の育成も考える必要があるのではないでしょうか。


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