私が以前ある組織に属していた際「空間を共有することの意味」について考えさせられる経験をしたことがあります。そこでは、スタッフ全員が参加する会議が定期的に開かれ、情報共有や業務の進捗確認などが行われていました。しかし、新型コロナの発生により顔を合わせること自体が自粛傾向になり、非接触なグループチャットでのやりとりにシフトしていくことになりました。当初は気にもとめませんでしたが、しばらくたつと組織内がぎくしゃくし出し、それまでにはなかった他部署への不信感を募らせるスタッフまで出たほどです。「情報」としては、リアルな会議と同様グループチャット上で丁寧に共有されていましたが、相手に対しての確認を必要以上に重く受け止めたり、逆に軽んじられたと感じてしまうというような小さなすれ違いが生まれるようになりました。情報の正確性だけではなく、空間を共有することで相手の状況というものを様々な角度から察知しているということを改めて認識し、何より顔を合わせるということがコミュニケーションの質には重要なのだということを感じさせられた経験でした。
私はこのような「空間共有」が演劇の大きな特性であり価値だと思っています。人間はリアルに誰かと出会い五感をフル活用することで、目に見える動作や言葉の意味以上のものを受け取りコミュニケーションを繋いでいます。コロナ禍、未知のウイルスへの不安から、とにかく人との接触はリスクということになりました。さらに、近年躍進しているAIは、その技術が高まれば高まるほど「真実」への疑いが増大していくという悲劇的な側面をもったテクノロジーでもあります。本当かどうかもわからない言葉や画が増えていくことは、リアリティへの不信感を生み出すことにもなってしまうのです。私は、このような進化の先に、むしろ「リアルへの欲求」が高まることになるのではないかと思っています。コロナ禍に人類が失いかけたものを再発見するには演劇の特性と価値が意味をもつのではないかと考えています。