2025/12/28

制作者の気概

 最近、MMSTの稽古では、どのような人間が登場することがこの場にとって良いのか、理想の人間像をイメージして取り組む、という話が出ます。これは、自分の中だけで良いと思う人物像を勝手にイメージするというよりは、現実的な空間の中で「このような人間が登場することが良いことではないか」という選択を行う中でイメージされるものです。MMST代表は、「この選択において、自分自身の日常的なパーソナリティは関係がない」と言います。自分はこういう人間であるから、という前提でスタートしてしまうと選択そのものが限定的になり、イメージの理想性が損なわれてしまうことになるのだそうです。自分自身の日常とは切り離した理想のイメージに対して、現実的に何が足りていないか、そのためにどうすればいいかを考えるということが健全な思考なのだと思います。制作者でいえば、「作品と社会を繋ぐ」を目的だとする場合、どのような人間が登場することが良いのか?という理想としての人間像=制作者をイメージするということになります。公演の運営がスムーズにいくこと、集客を増やすこと、知名度を上げることなど、枝葉の部分はありますが、根幹の「作品と社会を繋ぐ」ことに対しての理想のイメージ(=人間像)を持つことについては、私自身の経験を振り返っても難しいことだと痛感しています。「社会では到底受け入れられないような価値感を生きているアーティストやその作品を、どのような仕組みによって社会と繋ぎ合わせ、意味のある出会いにするか」という目標の中で、「その目標に対しての責任を最後まで失わずに持ち続けられる人間」というイメージが私の理想像では重要なものだと考えています。この理想を現実化するという執念に、制作者という人間の「気概」が宿るのではないでしょうか。

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