2026/02/23

分析力と実行力

「何かを始める時、まずは計画をしっかり持とう」

周囲の大人たちからこのような助言を何度となくもらってきました。社会に出ると、この「計画」は細分化され「物事をよく分析し客観的なデータや事実に基づいて考えること」が求められるのが一般的だろうと思います。私自身、ここに疑いはありませんし、あらゆる便利なツールが登場したおかげで情報も集めやすくなり、分析はしやすくなったと感じています。一方で、無意識のうちにこの分析が目的化されてしまうことの怖さも感じています。「分析」は行動するための車輪の一つであるという前提を忘れてしまうと、データだけが積み上がり、結局物事が何も進んでいないということになりかねません。近年はSNSの発達により、成功した実業家の例を参照することも容易に行えますが、優れた人は分析力と実行力のバランスが明確であり、安定しているように思います。分析力よりもむしろ実行力を重視し「行動しながら考える」ということが当たり前になっているようです。むしろ、実行しトライアンドエラーを繰り返すことで地に足のついた「分析力」が育つのかもしれません。私は「まずは調べて(考えて)から行動する」ということが染み付いてしまっているようで、よくMMST代表から実行力とのバランスの悪さを指摘されます。その度に反省はするものの改善されずに繰り返してしまうのは、根本の価値観が状況に適していないということなのだと思います。最近MMSTの稽古では、自らの欲動として知らずに発動する価値観については、それ自体を変えるのではなく「この状況ではこう考える」という理想に沿って新たに構築して価値観のバリエーションを増やすという「考え方の作法」のようなものが問題にされます。私自身、自己分析にも疲れてきたので、実行力に関する新たな考えを理想に沿って構築していきたいと思います。

2026/02/15

正直の美学 〜ホンネとタテマエの終焉〜

 日本社会には古くから「ホンネとタテマエ」という暗黙のルールのようなものがあります。調和を好む日本人が培ってきた社会的な文化様式だとも言われていますが、外国人との交流が当たり前の社会になると「タテマエ」が通じないことは往々にあり、「日本人はホンネを言わず分かりづらい」といったディスコミュニケーションがおこることも少なくありません。そして、最近では日本人の中でも「ホンネとタテマエ」が通用しないと感じることが増えてきました。社会の効率化や個人主義の加速、そこにハラスメント問題などが複雑に絡んできた現代社会では、「まずは自分の主張はした方がよい」という考え方が主流になってきているように思います。私は相手への配慮が前提となった「タテマエ」は、自分の「ホンネ」だけを優先する考え方より良いことではないかと思っていましたが、近年の混沌とした世界情勢を見ていると「タテマエ」が機能しない時代になっているという現実も強く感じています。対外的に強く主張しなければならない場合もあり、不安定な世の中だからこそ強い主張を語る政治家に期待したくなるといったことも仕方がないことだと思いますが、単純に「ホンネ」=「正直」ということではなく、正直の(偽らない)美学を持つということが必要なのではないでしょうか。単に自分の主張や利益追求だけでこうしたいという稚拙なホンネだけで支えられたコミュニティはやはりどこか脆弱に成らざる得ず、家族や会社、国家も含めたあらゆるコミュニティの中でどのように振る舞うべきかという美学的な「タテマエ」を持つことが必要なのではないかと思います。ホンネとタテマエの分割が通用しなくなり、終焉を迎えつつある今、美学的なタテマエがそのままホンネとなるような考えの統一化が必要なのではないでしょうか。それは「信念」と言い換えても良いかもしれませんが、そのような美学に対する正直さを持つことは如何なる時代においても重要なのだろうと思います。

2026/02/10

演劇と政治

 古代ギリシャにおいて、演劇は政治と深く結びついていたと言われています。神話をもとに政治的、社会的な考察を市民に促すなど、特に当時は市民(注:成人男性に限るが・・)へ向けた教養の場としても機能しており、現代のような娯楽としての要素は低かったことが知られています。日本でも、60年代の学生運動と演劇が深く結びついていたことを思えば、その批評性が社会を考える上での有効なメディア、ツールであったことが窺えます。しかし、その運動の帰結と、その流れに対しての反動もあってか、現代では批評性を伴う演劇が敬遠される傾向にあるともいえるのではないでしょうか。演劇関係者に権力に対して批判精神を持つ左派的な立場を取る人は少なくありませんが、現状の問題を本気で改善する際に、問題点に対しての鋭い指摘が本当に有効なのかどうかは落ち着いて考える必要があるように思います。演劇が、その特性を通じて社会を考え、実践的に世の中の問題や課題を解決しうる有効な道具であるならば、現状への批判に留まるのではなく、来るべき未来のモデルを具体的に提示し「考え、実践する」為の現実空間を作ることこそ本来の姿なのかもしれません。私たちが生きる今日の世界は、戦争をはじめ様々な問題が渦巻いています。今こそギリシャ悲劇を参照し、演劇を有効に活用した実践者として行動できる「市民」のふるまいを身につけたいと思います。

 

2026/02/02

「やりたいこと」と「やらねばならないこと」

 先日、我が家に遊びにきた小学生の甥が宿題をしないままYouTubeに夢中になり、私の母に怒られていました。聞けば、甥は夕飯後に宿題をすると宣言し、夕飯前もYouTubeを見ていたといいます。夕飯を終えてもなかなか動かない甥に痺れを切らし「自分で約束した通りに宿題をしなさい」と注意すると、甥は泣きながら「やりたくない」と言いました。そこまで拒むならば困るのは自分なのだからやらなければいい、と言われると今度は「やらないといけないということは分かっている」と言いながらようやく宿題に取り掛かりました。一連の出来事をみて、子どもの頃は「やりたいこと」だけをやるが、大人になるにつれて「やらねばならないこと」に変わっていくのだな、と自分の過去を思い返し、考えさせられる機会になりました。近年、SNS上では「やりたいことをやろう」という世界中の人々が発信するメッセージで溢れかえっています。実際、それを実現して成功したという起業家も数多く存在し、多くの理解を集めているのではないでしょうか。「やりたいこと」を否定するものではありませんが、社会の中であらゆる関係性が絡めば絡むほど、そして目指す理想が高ければ高いほど、やはり「やらねばならないこと」を差し置けないのも事実ではないでしょうか。MMSTの参考資料の一つに『だいこんに花が咲いた』という高千穂高校剣道部のドキュメンタリー映像があります。強豪剣道部を率いる監督が生徒たちを鼓舞する印象的なシーンがあり、ここに「やらねばならないこと」に対するヒントがありました。

「一流とは、一流の苦労、技術、心を持つこと。そして、自分がそれを選ぶのなら、『やらねばならない』準備をし、実行し、反省をする。それをせずに、ああなりたい、こうしたいという『やりたいこと』を望むな」というものです。

シンプルに考えれば当たり前なことなのですが、この当たり前の実践が最も難しいことは多くの人々に賛同頂けるのではないでしょうか。芸術分野で生きようとすると、ともすれば「好きなことだけやってていいね」と思われがちです。私は「やりたいこと」だけやりたいと思う子どもではなく、「やらねばならない」準備をし、実行し、反省をして「一流」を目指したいと思います。

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