舞台芸術の場である劇場は、異空間だといわれることがあります。
上演される作品によって空間の雰囲気が変わるという意味でそのように表現されるのだろうと思っていましたが、その程度であれば美術館や博物館も展示されるモノによって姿を変えることがあり、劇場の特殊性と取るには弱いのではないかとも思っていました。その認識に変化が与えられたのは、私がまだ所属する前の2012年、MMSTでの最初の観劇体験でした。上演作品はドストエフスキーの「罪と罰」、会場はFUCAという小さなギャラリーです。多目的アートスペースとして運営されていたその場所は、どちらかといえば美術や音楽イベントが多く、演劇作品が上演されるということ自体が珍しい為、私はその意外性に興味をそそられました。窓もない密閉された薄暗い空間に、俳優4名の異様なエネルギーと集中力、そして、記号的に流れるシンプルな格子状の光が、日常とは全く違う世界を作り出し、その場にいた他の観客と「時間を共有」している不思議な感覚を持ったことを覚えています。その後、私はこのFUCAに何度となく訪れることになりますが、通常は白壁コンクリートのがらんとした空間であり、「罪と罰」を観劇した際に感じた空間的な広がりはどこへやら、こんなに狭い空間だったかと不思議に思うほどでした。演者と観客がそろえば、そこは劇場になり演劇が生まれるとも言われますが、その場が「異空間」となるためには、さらに日常を逸脱する為の弛まぬ鍛錬を重ねた俳優という特殊な人間が必要になるのだと思います。演出家や俳優がもっとも苦心しているのはこの「日常」との距離を保ち続けることなのではないでしょうか。その意味で劇場を異空間にするのは「俳優という人間の力」に他ならないと私は考えています。AI技術の進化により、映画やTVに映る俳優を如何様にも作り出せてしまう現代においてはむしろ、異空間としての劇場に実際に足を運び「俳優に出会い、その力に触れる」ことに強い価値が生まれていくことになっていくのではないでしょうか。