2025/12/28

制作者の気概

 最近、MMSTの稽古では、どのような人間が登場することがこの場にとって良いのか、理想の人間像をイメージして取り組む、という話が出ます。これは、自分の中だけで良いと思う人物像を勝手にイメージするというよりは、現実的な空間の中で「このような人間が登場することが良いことではないか」という選択を行う中でイメージされるものです。MMST代表は、「この選択において、自分自身の日常的なパーソナリティは関係がない」と言います。自分はこういう人間であるから、という前提でスタートしてしまうと選択そのものが限定的になり、イメージの理想性が損なわれてしまうことになるのだそうです。自分自身の日常とは切り離した理想のイメージに対して、現実的に何が足りていないか、そのためにどうすればいいかを考えるということが健全な思考なのだと思います。制作者でいえば、「作品と社会を繋ぐ」を目的だとする場合、どのような人間が登場することが良いのか?という理想としての人間像=制作者をイメージするということになります。公演の運営がスムーズにいくこと、集客を増やすこと、知名度を上げることなど、枝葉の部分はありますが、根幹の「作品と社会を繋ぐ」ことに対しての理想のイメージ(=人間像)を持つことについては、私自身の経験を振り返っても難しいことだと痛感しています。「社会では到底受け入れられないような価値感を生きているアーティストやその作品を、どのような仕組みによって社会と繋ぎ合わせ、意味のある出会いにするか」という目標の中で、「その目標に対しての責任を最後まで失わずに持ち続けられる人間」というイメージが私の理想像では重要なものだと考えています。この理想を現実化するという執念に、制作者という人間の「気概」が宿るのではないでしょうか。

2025/12/22

コロナ後の演劇

 2020年に世界規模で蔓延した新型コロナウイルスは、感染予防の為とは言え、人と人との物理的距離を強制的に引き離し、個別化を加速したと言われています。「集まる」ことが前提となる舞台芸術業界への影響は甚大であり、あらゆる公演・イベントが中止を余儀なくされました。オンラインツールを活用しての新しい表現方法が模索されたりもしましたが、自粛傾向にあった数年の間に「集まる」必要性自体を感じなくなった人も多く、演劇をやめてしまった人も少なくありません。コロナ問題は落ち着きましたが、文化に限らず社会生活においても「集う」意識と必要性は回復せず、むしろかつてに比べて弱くなってしまったように感じています。こうした傾向の中、演劇をやる意味、価値とは一体なんなのでしょうか。

 私が以前ある組織に属していた際「空間を共有することの意味」について考えさせられる経験をしたことがあります。そこでは、スタッフ全員が参加する会議が定期的に開かれ、情報共有や業務の進捗確認などが行われていました。しかし、新型コロナの発生により顔を合わせること自体が自粛傾向になり、非接触なグループチャットでのやりとりにシフトしていくことになりました。当初は気にもとめませんでしたが、しばらくたつと組織内がぎくしゃくし出し、それまでにはなかった他部署への不信感を募らせるスタッフまで出たほどです。「情報」としては、リアルな会議と同様グループチャット上で丁寧に共有されていましたが、相手に対しての確認を必要以上に重く受け止めたり、逆に軽んじられたと感じてしまうというような小さなすれ違いが生まれるようになりました。情報の正確性だけではなく、空間を共有することで相手の状況というものを様々な角度から察知しているということを改めて認識し、何より顔を合わせるということがコミュニケーションの質には重要なのだということを感じさせられた経験でした。

 私はこのような「空間共有」が演劇の大きな特性であり価値だと思っています。人間はリアルに誰かと出会い五感をフル活用することで、目に見える動作や言葉の意味以上のものを受け取りコミュニケーションを繋いでいます。コロナ禍、未知のウイルスへの不安から、とにかく人との接触はリスクということになりました。さらに、近年躍進しているAIは、その技術が高まれば高まるほど「真実」への疑いが増大していくという悲劇的な側面をもったテクノロジーでもあります。本当かどうかもわからない言葉や画が増えていくことは、リアリティへの不信感を生み出すことにもなってしまうのです。私は、このような進化の先に、むしろ「リアルへの欲求」が高まることになるのではないかと思っています。コロナ禍に人類が失いかけたものを再発見するには演劇の特性と価値が意味をもつのではないかと考えています。

2025/12/15

グローバル社会における情報とはなにか

 インターネットが当たり前になり、あらゆる情報を瞬時にやりとりできる時代、情報の価値はどんどんわかりづらくなってきています。さらには、AIの進化により、実際にはないはずのものがリアルに画像や動画として生成されたり、何が本当なのか簡単にはわからない世界に突入していることに不安を感じる人も少なくないと思います。現在のグローバル化された社会において、「情報」とは何なのでしょうか。

知識や様々な数的データ、文化、言語、コミュニケーションetc。一般的に言われるこうした情報は、インターネットの発達によって国や地域を超えて交換が容易になり、人間社会を便利にしていますし、そのこと自体は豊かだと言えるかもしれません。一方で、この情報が肥大化されて、実際にはあるにもかかわらず見えなくなっている「情報」もあるはずです。この見えなくなっている「情報」をもう少し注意深くみる必要があるのではないでしょうか。

最近MMSTの代表は、時制感覚についてよく言及します。過去、現在、未来という時制について、現代人は、“今”という現在性よりも過去や未来への意識配分が大きいために現実に起こっている実態を掴み損ねてしまうのではないかということです。インターネットをはじめ、交通、物流などの技術発展は目覚ましく、物理的にも日常生活の速度が早まっていることを思えば、私たちは「今」を捉えることが難しくなっているのではないでしょうか。先日、私はある恩師からの手紙を読み返すことがあり、あらためて、この「今」と「情報」についてリンクすることがありました。手紙の言葉がその人の「身体的な手の動き」と「伝えようとする情報」との連動の中で書かれていたこと、そして読み手側も筆跡やその強弱から言葉だけでなくその感覚までも読み取れていたことを思うと、人間が受け取る情報の幅は思う以上に広く、ここに重要な価値を見出せるのではないかと思います。演劇とは、この見えないが確かにある「情報」を扱うものであり、そこに「豊かさ」があるのではないでしょうか。

2025/12/07

異空間としての劇場

 舞台芸術の場である劇場は、異空間だといわれることがあります。 

 上演される作品によって空間の雰囲気が変わるという意味でそのように表現されるのだろうと思っていましたが、その程度であれば美術館や博物館も展示されるモノによって姿を変えることがあり、劇場の特殊性と取るには弱いのではないかとも思っていました。その認識に変化が与えられたのは、私がまだ所属する前の2012年、MMSTでの最初の観劇体験でした。上演作品はドストエフスキーの「罪と罰」、会場はFUCAという小さなギャラリーです。多目的アートスペースとして運営されていたその場所は、どちらかといえば美術や音楽イベントが多く、演劇作品が上演されるということ自体が珍しい為、私はその意外性に興味をそそられました。窓もない密閉された薄暗い空間に、俳優4名の異様なエネルギーと集中力、そして、記号的に流れるシンプルな格子状の光が、日常とは全く違う世界を作り出し、その場にいた他の観客と「時間を共有」している不思議な感覚を持ったことを覚えています。その後、私はこのFUCAに何度となく訪れることになりますが、通常は白壁コンクリートのがらんとした空間であり、「罪と罰」を観劇した際に感じた空間的な広がりはどこへやら、こんなに狭い空間だったかと不思議に思うほどでした。演者と観客がそろえば、そこは劇場になり演劇が生まれるとも言われますが、その場が「異空間」となるためには、さらに日常を逸脱する為の弛まぬ鍛錬を重ねた俳優という特殊な人間が必要になるのだと思います。演出家や俳優がもっとも苦心しているのはこの「日常」との距離を保ち続けることなのではないでしょうか。その意味で劇場を異空間にするのは「俳優という人間の力」に他ならないと私は考えています。AI技術の進化により、映画やTVに映る俳優を如何様にも作り出せてしまう現代においてはむしろ、異空間としての劇場に実際に足を運び「俳優に出会い、その力に触れる」ことに強い価値が生まれていくことになっていくのではないでしょうか。




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