2026/02/15

正直の美学 〜ホンネとタテマエの終焉〜

 日本社会には古くから「ホンネとタテマエ」という暗黙のルールのようなものがあります。調和を好む日本人が培ってきた社会的な文化様式だとも言われていますが、外国人との交流が当たり前の社会になると「タテマエ」が通じないことは往々にあり、「日本人はホンネを言わず分かりづらい」といったディスコミュニケーションがおこることも少なくありません。そして、最近では日本人の中でも「ホンネとタテマエ」が通用しないと感じることが増えてきました。社会の効率化や個人主義の加速、そこにハラスメント問題などが複雑に絡んできた現代社会では、「まずは自分の主張はした方がよい」という考え方が主流になってきているように思います。私は相手への配慮が前提となった「タテマエ」は、自分の「ホンネ」だけを優先する考え方より良いことではないかと思っていましたが、近年の混沌とした世界情勢を見ていると「タテマエ」が機能しない時代になっているという現実も強く感じています。対外的に強く主張しなければならない場合もあり、不安定な世の中だからこそ強い主張を語る政治家に期待したくなるといったことも仕方がないことだと思いますが、単純に「ホンネ」=「正直」ということではなく、正直の(偽らない)美学を持つということが必要なのではないでしょうか。単に自分の主張や利益追求だけでこうしたいという稚拙なホンネだけで支えられたコミュニティはやはりどこか脆弱に成らざる得ず、家族や会社、国家も含めたあらゆるコミュニティの中でどのように振る舞うべきかという美学的な「タテマエ」を持つことが必要なのではないかと思います。ホンネとタテマエの分割が通用しなくなり、終焉を迎えつつある今、美学的なタテマエがそのままホンネとなるような考えの統一化が必要なのではないでしょうか。それは「信念」と言い換えても良いかもしれませんが、そのような美学に対する正直さを持つことは如何なる時代においても重要なのだろうと思います。

2026/02/10

演劇と政治

 古代ギリシャにおいて、演劇は政治と深く結びついていたと言われています。神話をもとに政治的、社会的な考察を市民に促すなど、特に当時は市民(注:成人男性に限るが・・)へ向けた教養の場としても機能しており、現代のような娯楽としての要素は低かったことが知られています。日本でも、60年代の学生運動と演劇が深く結びついていたことを思えば、その批評性が社会を考える上での有効なメディア、ツールであったことが窺えます。しかし、その運動の帰結と、その流れに対しての反動もあってか、現代では批評性を伴う演劇が敬遠される傾向にあるともいえるのではないでしょうか。演劇関係者に権力に対して批判精神を持つ左派的な立場を取る人は少なくありませんが、現状の問題を本気で改善する際に、問題点に対しての鋭い指摘が本当に有効なのかどうかは落ち着いて考える必要があるように思います。演劇が、その特性を通じて社会を考え、実践的に世の中の問題や課題を解決しうる有効な道具であるならば、現状への批判に留まるのではなく、来るべき未来のモデルを具体的に提示し「考え、実践する」為の現実空間を作ることこそ本来の姿なのかもしれません。私たちが生きる今日の世界は、戦争をはじめ様々な問題が渦巻いています。今こそギリシャ悲劇を参照し、演劇を有効に活用した実践者として行動できる「市民」のふるまいを身につけたいと思います。

 

2026/02/02

「やりたいこと」と「やらねばならないこと」

 先日、我が家に遊びにきた小学生の甥が宿題をしないままYouTubeに夢中になり、私の母に怒られていました。聞けば、甥は夕飯後に宿題をすると宣言し、夕飯前もYouTubeを見ていたといいます。夕飯を終えてもなかなか動かない甥に痺れを切らし「自分で約束した通りに宿題をしなさい」と注意すると、甥は泣きながら「やりたくない」と言いました。そこまで拒むならば困るのは自分なのだからやらなければいい、と言われると今度は「やらないといけないということは分かっている」と言いながらようやく宿題に取り掛かりました。一連の出来事をみて、子どもの頃は「やりたいこと」だけをやるが、大人になるにつれて「やらねばならないこと」に変わっていくのだな、と自分の過去を思い返し、考えさせられる機会になりました。近年、SNS上では「やりたいことをやろう」という世界中の人々が発信するメッセージで溢れかえっています。実際、それを実現して成功したという起業家も数多く存在し、多くの理解を集めているのではないでしょうか。「やりたいこと」を否定するものではありませんが、社会の中であらゆる関係性が絡めば絡むほど、そして目指す理想が高ければ高いほど、やはり「やらねばならないこと」を差し置けないのも事実ではないでしょうか。MMSTの参考資料の一つに『だいこんに花が咲いた』という高千穂高校剣道部のドキュメンタリー映像があります。強豪剣道部を率いる監督が生徒たちを鼓舞する印象的なシーンがあり、ここに「やらねばならないこと」に対するヒントがありました。

「一流とは、一流の苦労、技術、心を持つこと。そして、自分がそれを選ぶのなら、『やらねばならない』準備をし、実行し、反省をする。それをせずに、ああなりたい、こうしたいという『やりたいこと』を望むな」というものです。

シンプルに考えれば当たり前なことなのですが、この当たり前の実践が最も難しいことは多くの人々に賛同頂けるのではないでしょうか。芸術分野で生きようとすると、ともすれば「好きなことだけやってていいね」と思われがちです。私は「やりたいこと」だけやりたいと思う子どもではなく、「やらねばならない」準備をし、実行し、反省をして「一流」を目指したいと思います。

2026/01/26

読解の公共性 〜agoratioの可能性〜

 MMSTでは、作品を「鑑賞する」ということに重点をおいたトーク企画『agoratio』をスタートしました。これは、観賞後に感想を語り合うトーク企画というよりは、その作品がどういうものであり、どういった可能性を持っているのか、という「読解」に比重をおいた対話の場を作るべく立ち上げたものです。たとえば、舞台作品において鑑賞者は、それぞれのシーンや台詞に感動したり、共感や反発も含め、様々な感想を持つと思います。しかし、それが自分の体験に引きつけて連想された感想に過ぎず、作品そのものとは直接関係のない「思い」になっていることも多いのではないでしょうか。もちろん、「感想」は人それぞれの思考になりますので、それ自体を否定するものではありません。しかしながら、作品鑑賞において、相手(=作品)と無関係に「私はこう思う」という一方通行の主張を展開するとなると、作品はある意味何でもいいということにもなりかねません。かつてMMSTでは、団員向けの戯曲勉強会を開催していたことがあります。週に数冊、指定される共通の戯曲を読み、「あらすじ」を書いて共有し合うというものです。ここでは「どう思ったか」という感想ではなく、あくまで何が書かれているのかという「あらすじ」を書くことがルールでした。どんなにあらすじを書いてきたとしても「同じ戯曲がここまで違うのか」というほどにメンバーそれぞれが違うものを書いてくることも少なくありませんでした。それほどに「作品を読解する」ということが容易なことではない、という現実を知る機会であり、同時に作品鑑賞の可能性と豊かさを感じる機会にもなりました。日常生活においても「あの人は勘が鋭い」「インプット力が高い」という人がいますが、そのような人は大抵、相手や物事に対する「読解」の能力が高いとも言い換えられると思います。その読解をおこなった上で「自分がどう考えるか」という順序を踏んでいる。そして、そうであるが故に現状を見誤らずに対話ができるのではないでしょうか。近年SNS上でも、この記事をどう読んだらそう思えるのか、という極端な曲解コメントが散見されるようになりました。インターネットをはじめテクノロジーの進化によって膨大な情報が瞬時に流れ去っていく現代において、人々は「どう思ったか」というアウトプットに迫られ、「何を言っているのか」というインプット(=読解)を疎かにしてしまう傾向にあるのかもしれません。一方で、作品のコンセプトや作者の狙いが正解であるかのような読み方にも問題があるように思います。研究論としてはある種必要な態度かもしれませんが、作品と鑑賞者における対話を矮小化することにも繋がりかねないように思うのです。作品が「何を語っているのか」という読解を前提として「観る」こと、その上で「私は何を考えるか」という相互対話の中に作品鑑賞の可能性があり、ここにこそ「公共」という概念が有効に機能する場があるのではないでしょうか。『agoratio』に取り上げてほしいという劇団や実演家がいましたらぜひお声がけください。

▶︎ agoratio 001 [ハムレットマシーン/Mr.daydreamer] 2026.1.16

2026/01/18

虚栄と共栄

 10年以上前のことですが、東南アジアの某アートカンパニーから、知人を介して「MMSTに相談したい」と連絡がきたことがあります。当時韓国や台湾の演劇関係者との交流が増えてきたところでしたので、何か新たなネットワークが広がるならばと会うことになりました。軽く自己紹介を交わした後、相手方が怒涛のように自身の過去のパフォーマンスの経歴や最近取り組んでいるプロジェクトのことなどを話しはじめました。その後もしばらく話を聞きましたが、自己PRが続くばかりで、一向に相談めいた話はありません。思い切って相談内容について切り出すと、MMSTとのコラボレーションを望んでいるという話でした。しかし、そこからどう話をしてもMMSTというカンパニー自体への興味も薄く、コラボレーションをしたいというよりも、制作やプロデューサー的なポジションのスタッフがほしいという話にしか捉えきれませんでした。正直に言ってしまえば、「これはきつい」と思いましたが、それとともに、私自身も実は同じようなことを他所でやってしまっているのではないか、と一気に背筋が冷えました。作品を売り込まなければならない、という場や状況にある時、私は、自分たちをどう見せるか、どうやったら評価してもらえるかなどを考えてしまいがちです。しかし、外側を大きく見せて評価をしてもらえたとしてそれが何になるのでしょうか。ましてや相手にとって何の有益性が生まれるのでしょうか。私自身も先の例を反面教師として意識すべき事項の一つになりました。その後、私はあるラジオ番組で、「共栄」的美学をもつ人がアメリカの実業家たちの中に多いという話を聞きました。宗教的背景から、寄付の精神が根付いているアメリカらしい話だと思います。少し前の世代の日本の起業家たちにも当たり前にある美学だったのだろうと思いますが、いつしか、「自分に余裕がないと他者を幸せにできないのだから、まずは自分のことを考えた方が良い」と言った考え方が常識として拡がっているように思います。個人の利益だけでなく、社会全体の利益や、他者が協力し合い発展する「共栄」は、競争社会を否定するものでも、偏った平等論でもなく、むしろ社会にとって健康的な考え方なのではないでしょうか。国を超えて付き合う関係者も少しずつ増えてきている今、一社会人として、あらためて「共栄」精神を忘れずに取り組もうと思います。

2026/01/12

芸術団体の自立と連帯

 以前、公的機関の助成金を受けた際に、助成元の職員から「文化団体は、助成金に頼らず自立した活動ができることを目指すべきである」と言われたことがあります。税金で給料や事業費がまかなわれている公務員に「自立」を指導されるというのも正直複雑な心境でしたし、必ずしも資本主義経済の理屈だけでは測れない文化芸術について、この職員の無理解を感じざるを得ず残念な気持ちになりましたが、一方で「自立」とは何かをあらためて考えさせられる機会にもなりました。日本における芸術文化団体のほとんどがこの呪縛に悩まされているのではないかと思います。特に日本は先進国の中でも文化予算が他国に比べて極端に低いと言われています。これまで諸先輩方が、芸術文化も医療や教育と同線上で考えるべきと考え、環境づくりや制度設計に奮闘されてきましたが、芸術は不要不急のものとしてまだまだその価値を上げられずにいます。しかしこれは、芸術団体の訴えの弱さゆえなのかもしれません。たとえば、経済活動を支える様々な企業、組織はロビー活動といわれる根回しや要望を訴えかける積極的な取り組みをおこない、法律やルールの制定や変更に影響を与えようとしています。実際にその努力で自分たちの活動の優位性を勝ち取ってきた分野も数多くあります。そうした取り組みを経営者や起業家が実践している姿をみると、経営努力ではどうにもならないものだから「自立」は馴染まないのではないかと考えていた自分が恥ずかしくなりました。「自立」とは自らの責任において、社会を作ろうとする取り組みの中にあり、誰かにやってもらって実現しようというのは子どもと言われても仕方がないことなのだと思います。しかし、一個人でこれらを実現しようとしても難しいというのも事実です。コロナ禍には劇場や文化団体、芸術家らが連帯して活動継続のために訴えを起こす活動もみられたように、通常時でも自分たちの活動の価値を訴え、変えていく連帯が必要なのだろうと思います。やっている方向性や美学が違えども、自分たちの活動環境や社会をよりよくするための意識変革を、ある時は協働し、連帯することで変えられるものがあるのではないでしょうか。そうした連帯による「共闘意識」という土壌を耕していく取り組みの中に、根強い「自立」が生まれるのではないかと思います。

2026/01/04

まだ見ぬ観客と私

 作品と観客とが出会う時、どのような出会い方が社会にとって意味のある出会いになるのか、制作者というポジションに立つ私にいつも重圧のようにのしかかる課題の一つです。作品の内容にしても、広報にしても「わかりやすさ」が求められ、その方が多くのお客さんに届けられるので良い、という価値観が世間には根強く存在します。私自身も実際に公演に向けて多くのことが走り出すと目の前の現実への焦りから、「わかりやすさ」の呪縛に足をすくわれそうになることもあります。某有名俳優があるインタビューにおいて、「演技にしても宣伝にしても『わかりやすさ』を提供しようとする人がいるが、それは観客のことを考慮しているというよりむしろ『見下している』ことになるのではないか」という趣旨のことを話していました。勝手な想像で、このように宣伝した方が「伝わるだろう」と考えることは、本来出会うべき観客を逆に遠ざけてしまうことになるのではないでしょうか。これもある起業家が話していたことですが、商品を売る時に意識することとして、「その商品が生活の中のどのようなシーンで必要となるかをよく考えてみる」とおっしゃっていました。売りたいと思う商品の性能やデザインなど「良いところをどうアピールするか」ではなく、その商品が実際にどう必要となるのかを理想的に考えてみるということです。この過程は、社会との出会い方を考える上で必要なことだと私は思います。「作品の内容から親和性のある属性の人にアピールすればいい」というマーケティング手法によって受け手の志向を限定するのではなく、あくまで「どのような出会いが必要とされるべきなのか」という理想を掲げ、結果そこに反応する人が出てくるというのがシンプルに開かれた良い出会い方なのではないでしょうか。世界中には様々な価値観や背景をもつ「まだ見ぬ観客」が存在します。それら全ての観客との出会いを生むことは現実的には難しいですが、あらゆる情報発信の選択肢が溢れる現代において、こだわるならば「出会い方の質」であり、制作者としてその実現化に対して粘っていきたいと思います。

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