美術を学んだことがある人なら物を描くデッサンは一通り通過していると思います。私も高校時代はデッサンに明け暮れた時期を過ごしました。美大を受験したため入試にはデッサンが必須。入試が近づいてくると焦る気持ちから段々と自分が描いているものが良いのかどうか分からなくなったことがあります。そんな状況を察してなのか恩師が一言「おまえ、自分の絵ばっかり見とったらつまらんぞ(ダメだぞ)」。当初全く意味がわかりませんでしたが、恩師曰く変に焦ってくると視野がどんどん狭くなり自分がどうなっているかということばかりに気を取られていく。そうなると悪循環でどう頑張っても目に見えているのが自分の描いてる絵ばかりになり、うまくいかなくなるのだと言います。うまくいく人は目の前の対象物やもっと広い意味での空間に対しての意識があり、もっといえば一緒に描いている周囲の人が描いているものまで見えていたりするのだと。当時はそういうものなのだろうかと半信半疑でしたが、社会に出るとこれはデッサン以外でもほとんど当てはまるのではないかと思うようになりました。仕事でも人間関係でも思い通りにいかなくなることが多々ある中で、うまくいく人は周囲や相手の状況をよく見ており「自分がどうか」よりも「その場をどううまく進めるか」に視点が注がれているように思います。逆にうまくいかない場合は、かつての私のデッサンのように自分の絵ばかりが気になってしまうということかもしれません。実際にこのブログでも何度となく紹介した韓国人俳優の多くはこの周りへの視点の強さが際立っていると思います。もちろん平常時では多くの人がよほど自己中心的でない限り、周囲への配慮や客観的視点を持っていることがほとんどではないでしょうか。重要なのは思い通りにいかなくなった時にどうするかが人間としての力量を問われているのだと思います。MMSTの稽古でもこれまで頻繁に言われている話ですが、思い通りにいかない時こそ、周りとの関係性を意識できるか。その関係性の中での振る舞いが相手にどういう影響を及ぼすのかを考えられるか。そこに自分の絵ばかり見て右往左往しているうちは状況を変えることも周りに良い影響を与えることもできないのかもしれません。
MMSTキュレーターの古賀裕奈が、週に1度、日々の活動や社会との接点のなかで生まれた問いを思考のメモとして書き留めている場所です。 すぐに答えが出ることはありません。 それでも、考え続けることを手放さず生きたいと思います。
2026/03/22
領土問題を『結婚申込』(作チェーホフ)から考える
ロシアの劇作家、チェーホフの短編喜劇『結婚申込』は、2023年に当団体が開催した夏のワークショップにおいて創作作品として取り上げたこともあり、私にとって思い出深い作品の一つです。この作品は、隣人の娘に結婚申し込みに来た男が、相手の娘と土地所有を巡って口論になり、諍いが拡大していくという内容です。喜劇として描かれている作品ですが、昨今の世界情勢を思うと笑ってばかりもいられない複雑な心境になります。領土問題は人類が長い歴史において幾度も繰り返してきた問題ですが、『サピエンス全史』を書いたユヴァル・ノア・ハラリによれば、人類が定住し農耕を始めたことで小麦のストックが始まり、そこに格差が生まれたことが「争い」の起源であると述べています。「所有」が争いを生むという人間の特性をチェーホフはよく捉えていたのではないでしょうか。実際に私たちが行った上演では韓国人俳優と日本人俳優が混在して行われましたので、「争い」と「和解」の繰り返しが妙なリアリティーを生む上演になっていました。私はここに演劇というものの豊かさがあるように考えています。演劇史を振り返れば、時代や国も違う人間がそれぞれの時代や場所において、あらゆる工夫をして生きてきました。私たちはその先人の「工夫」を「今を生きる」ということに活用できないだろうか、そして、演劇がその工夫を実感として扱うことに最も適しているのではないでしょうか。原作では、結婚しても争いが続くであろうことがほのめかされつつ、このカップルの間にはいる父親の皮肉な祝杯で幕を閉じます。中東やウクライナといった場所で生じている「争い」の中で私たちはどのような「祝杯」を生むことができるのか。今こそ、ロシア人であるチェーホフの「工夫」を活用できるのではないかと私は考えています。
2026/03/11
劇場・稽古場・自己の公共性
MMSTは、2007年に奈良県天川村にある古民家を改装し占有アトリエを構えました。その後、代表が福岡に移住したことを機に2015年には福岡市内に団体事務所兼稽古場を構え、2021年には大川市に稽古場や滞在スペースを保有した劇場を立ち上げました。 天川村のアトリエは残念ながら昨年閉鎖することになりましたが、私が創作環境の重要さを初めて教えられた大切な場所でした。 稽古場を構える前は、公共施設や有料スタジオをレンタルして活動していましたが、占有ではない場所を利用する場合、利用時間の制約や舞台で使用する道具を置いたままにできないなど、様々な制約に縛られます。 そして何より利用料金という経済的な問題は活動の存続にとって深刻なことでした。 MMSTでは総合的に考えて自分たちの「場」を持った方が有益だろうという判断から占有稽古場を持つに至りました。越えるべき問題は多々ありつつも、これまでなんとか運用を継続しています。 稽古場を持ち続けることには確かに様々な努力が必要ですが、毎回稽古場を確保できるか、利用時間内に練習を終えられるかといったストレスからは解放されますし、本番に近い形で舞台セットを組んだり、テクニカル的な調整も行えたり、24時間体制で試行錯誤できる空間があるということはやはり創作において大きなメリットと言えます。 そして、昨年行った天川村アトリエの最後の公演で、国内外から関係者が集い共通の思い出を語りあう光景を目にし、「占有とは閉じられると同時に拡がる」ということであり、ここに「公共」ということの実態があるのではないかと強く感じました。 効率や稽古の質という問題だけではない、その「場」に集まった人々それぞれが持つ自己の体感の蓄積、そして、そこから拡がっていく関係性の中に、集団芸術、空間芸術と言われる演劇にとって重要な要素があるのだろうと思います。
2026/03/02
観客と対峙する気概 〜他者への畏怖と敬意〜
以前MMSTが公演で韓国を訪れた際、大道芸人やストリートミュージシャンが集まり、観光客で賑わうある街道に立ち寄ったことがありました。同行していた韓国俳優がそのパフォーマンスを見て、「バッ!パッ!がないですね」と私に話してきました。MMSTの稽古においてよく演出が使う表現で、要は観客に対し「見てください」という受け身の姿勢では関係性自体が弱くなってしまうので、まずは「見ろ!」という能動的な姿勢で舞台に立ちなさい、という話なのですが、それを実現するべく試行錯誤を繰り返す中で、全てが「バッ!」の中に濃縮され創作者同士の共通言語となって使われています。また、別の韓国俳優は、自身が出演した公演について次のように話ました。「今回観客の集中を感じてとても怖くなった。しかし、その集中に対して、こうしてやる、こうしたらどうか、と必死に応答を繰り返し続けたところ、まるで会話をしているような感覚があってなんとも言えない感じだった」。私はこのような何気ない発言の中に観客や空間と対峙する俳優の凄まじい「実践」の積み重ねを感じ、俳優という人間が行う仕事の奥深さを感じました。二度と同じ瞬間は来ないという特殊な環境下で「何を考えるかわからない他者(=観客)に対峙する」ということへの畏怖と敬意、そして、そこに正面から対峙する為の確かな研鑽を積んだ人間(=俳優)が、人間自体の役割がボヤけ始めてきた現代という不確かな時代には大きな意味を持つのではないでしょうか。
2026/02/23
分析力と実行力
「何かを始める時、まずは計画をしっかり持とう」
周囲の大人たちからこのような助言を何度となくもらってきました。社会に出ると、この「計画」は細分化され「物事をよく分析し客観的なデータや事実に基づいて考えること」が求められるのが一般的だろうと思います。私自身、ここに疑いはありませんし、あらゆる便利なツールが登場したおかげで情報も集めやすくなり、分析はしやすくなったと感じています。一方で、無意識のうちにこの分析が目的化されてしまうことの怖さも感じています。「分析」は行動するための車輪の一つであるという前提を忘れてしまうと、データだけが積み上がり、結局物事が何も進んでいないということになりかねません。近年はSNSの発達により、成功した実業家の例を参照することも容易に行えますが、優れた人は分析力と実行力のバランスが明確であり、安定しているように思います。分析力よりもむしろ実行力を重視し「行動しながら考える」ということが当たり前になっているようです。むしろ、実行しトライアンドエラーを繰り返すことで地に足のついた「分析力」が育つのかもしれません。私は「まずは調べて(考えて)から行動する」ということが染み付いてしまっているようで、よくMMST代表から実行力とのバランスの悪さを指摘されます。その度に反省はするものの改善されずに繰り返してしまうのは、根本の価値観が状況に適していないということなのだと思います。最近MMSTの稽古では、自らの欲動として知らずに発動する価値観については、それ自体を変えるのではなく「この状況ではこう考える」という理想に沿って新たに構築して価値観のバリエーションを増やすという「考え方の作法」のようなものが問題にされます。私自身、自己分析にも疲れてきたので、実行力に関する新たな考えを理想に沿って構築していきたいと思います。2026/02/15
正直の美学 〜ホンネとタテマエの終焉〜
日本社会には古くから「ホンネとタテマエ」という暗黙のルールのようなものがあります。調和を好む日本人が培ってきた社会的な文化様式だとも言われていますが、外国人との交流が当たり前の社会になると「タテマエ」が通じないことは往々にあり、「日本人はホンネを言わず分かりづらい」といったディスコミュニケーションがおこることも少なくありません。そして、最近では日本人の中でも「ホンネとタテマエ」が通用しないと感じることが増えてきました。社会の効率化や個人主義の加速、そこにハラスメント問題などが複雑に絡んできた現代社会では、「まずは自分の主張はした方がよい」という考え方が主流になってきているように思います。私は相手への配慮が前提となった「タテマエ」は、自分の「ホンネ」だけを優先する考え方より良いことではないかと思っていましたが、近年の混沌とした世界情勢を見ていると「タテマエ」が機能しない時代になっているという現実も強く感じています。対外的に強く主張しなければならない場合もあり、不安定な世の中だからこそ強い主張を語る政治家に期待したくなるといったことも仕方がないことだと思いますが、単純に「ホンネ」=「正直」ということではなく、正直の(偽らない)美学を持つということが必要なのではないでしょうか。単に自分の主張や利益追求だけでこうしたいという稚拙なホンネだけで支えられたコミュニティはやはりどこか脆弱に成らざる得ず、家族や会社、国家も含めたあらゆるコミュニティの中でどのように振る舞うべきかという美学的な「タテマエ」を持つことが必要なのではないかと思います。ホンネとタテマエの分割が通用しなくなり、終焉を迎えつつある今、美学的なタテマエがそのままホンネとなるような考えの統一化が必要なのではないでしょうか。それは「信念」と言い換えても良いかもしれませんが、そのような美学に対する正直さを持つことは如何なる時代においても重要なのだろうと思います。
2026/02/10
演劇と政治
2026/02/02
「やりたいこと」と「やらねばならないこと」
先日、我が家に遊びにきた小学生の甥が宿題をしないままYouTubeに夢中になり、私の母に怒られていました。聞けば、甥は夕飯後に宿題をすると宣言し、夕飯前もYouTubeを見ていたといいます。夕飯を終えてもなかなか動かない甥に痺れを切らし「自分で約束した通りに宿題をしなさい」と注意すると、甥は泣きながら「やりたくない」と言いました。そこまで拒むならば困るのは自分なのだからやらなければいい、と言われると今度は「やらないといけないということは分かっている」と言いながらようやく宿題に取り掛かりました。一連の出来事をみて、子どもの頃は「やりたいこと」だけをやるが、大人になるにつれて「やらねばならないこと」に変わっていくのだな、と自分の過去を思い返し、考えさせられる機会になりました。近年、SNS上では「やりたいことをやろう」という世界中の人々が発信するメッセージで溢れかえっています。実際、それを実現して成功したという起業家も数多く存在し、多くの理解を集めているのではないでしょうか。「やりたいこと」を否定するものではありませんが、社会の中であらゆる関係性が絡めば絡むほど、そして目指す理想が高ければ高いほど、やはり「やらねばならないこと」を差し置けないのも事実ではないでしょうか。MMSTの参考資料の一つに『だいこんに花が咲いた』という高千穂高校剣道部のドキュメンタリー映像があります。強豪剣道部を率いる監督が生徒たちを鼓舞する印象的なシーンがあり、ここに「やらねばならないこと」に対するヒントがありました。
「一流とは、一流の苦労、技術、心を持つこと。そして、自分がそれを選ぶのなら、『やらねばならない』準備をし、実行し、反省をする。それをせずに、ああなりたい、こうしたいという『やりたいこと』を望むな」というものです。
シンプルに考えれば当たり前なことなのですが、この当たり前の実践が最も難しいことは多くの人々に賛同頂けるのではないでしょうか。芸術分野で生きようとすると、ともすれば「好きなことだけやってていいね」と思われがちです。私は「やりたいこと」だけやりたいと思う子どもではなく、「やらねばならない」準備をし、実行し、反省をして「一流」を目指したいと思います。
2026/01/26
読解の公共性 〜agoratioの可能性〜
MMSTでは、作品を「鑑賞する」ということに重点をおいたトーク企画『agoratio』をスタートしました。これは、観賞後に感想を語り合うトーク企画というよりは、その作品がどういうものであり、どういった可能性を持っているのか、という「読解」に比重をおいた対話の場を作るべく立ち上げたものです。たとえば、舞台作品において鑑賞者は、それぞれのシーンや台詞に感動したり、共感や反発も含め、様々な感想を持つと思います。しかし、それが自分の体験に引きつけて連想された感想に過ぎず、作品そのものとは直接関係のない「思い」になっていることも多いのではないでしょうか。もちろん、「感想」は人それぞれの思考になりますので、それ自体を否定するものではありません。しかしながら、作品鑑賞において、相手(=作品)と無関係に「私はこう思う」という一方通行の主張を展開するとなると、作品はある意味何でもいいということにもなりかねません。かつてMMSTでは、団員向けの戯曲勉強会を開催していたことがあります。週に数冊、指定される共通の戯曲を読み、「あらすじ」を書いて共有し合うというものです。ここでは「どう思ったか」という感想ではなく、あくまで何が書かれているのかという「あらすじ」を書くことがルールでした。どんなにあらすじを書いてきたとしても「同じ戯曲がここまで違うのか」というほどにメンバーそれぞれが違うものを書いてくることも少なくありませんでした。それほどに「作品を読解する」ということが容易なことではない、という現実を知る機会であり、同時に作品鑑賞の可能性と豊かさを感じる機会にもなりました。日常生活においても「あの人は勘が鋭い」「インプット力が高い」という人がいますが、そのような人は大抵、相手や物事に対する「読解」の能力が高いとも言い換えられると思います。その読解をおこなった上で「自分がどう考えるか」という順序を踏んでいる。そして、そうであるが故に現状を見誤らずに対話ができるのではないでしょうか。近年SNS上でも、この記事をどう読んだらそう思えるのか、という極端な曲解コメントが散見されるようになりました。インターネットをはじめテクノロジーの進化によって膨大な情報が瞬時に流れ去っていく現代において、人々は「どう思ったか」というアウトプットに迫られ、「何を言っているのか」というインプット(=読解)を疎かにしてしまう傾向にあるのかもしれません。一方で、作品のコンセプトや作者の狙いが正解であるかのような読み方にも問題があるように思います。研究論としてはある種必要な態度かもしれませんが、作品と鑑賞者における対話を矮小化することにも繋がりかねないように思うのです。作品が「何を語っているのか」という読解を前提として「観る」こと、その上で「私は何を考えるか」という相互対話の中に作品鑑賞の可能性があり、ここにこそ「公共」という概念が有効に機能する場があるのではないでしょうか。『agoratio』に取り上げてほしいという劇団や実演家がいましたらぜひお声がけください。
2026/01/18
虚栄と共栄
10年以上前のことですが、東南アジアの某アートカンパニーから、知人を介して「MMSTに相談したい」と連絡がきたことがあります。当時韓国や台湾の演劇関係者との交流が増えてきたところでしたので、何か新たなネットワークが広がるならばと会うことになりました。軽く自己紹介を交わした後、相手方が怒涛のように自身の過去のパフォーマンスの経歴や最近取り組んでいるプロジェクトのことなどを話しはじめました。その後もしばらく話を聞きましたが、自己PRが続くばかりで、一向に相談めいた話はありません。思い切って相談内容について切り出すと、MMSTとのコラボレーションを望んでいるという話でした。しかし、そこからどう話をしてもMMSTというカンパニー自体への興味も薄く、コラボレーションをしたいというよりも、制作やプロデューサー的なポジションのスタッフがほしいという話にしか捉えきれませんでした。正直に言ってしまえば、「これはきつい」と思いましたが、それとともに、私自身も実は同じようなことを他所でやってしまっているのではないか、と一気に背筋が冷えました。作品を売り込まなければならない、という場や状況にある時、私は、自分たちをどう見せるか、どうやったら評価してもらえるかなどを考えてしまいがちです。しかし、外側を大きく見せて評価をしてもらえたとしてそれが何になるのでしょうか。ましてや相手にとって何の有益性が生まれるのでしょうか。私自身も先の例を反面教師として意識すべき事項の一つになりました。その後、私はあるラジオ番組で、「共栄」的美学をもつ人がアメリカの実業家たちの中に多いという話を聞きました。宗教的背景から、寄付の精神が根付いているアメリカらしい話だと思います。少し前の世代の日本の起業家たちにも当たり前にある美学だったのだろうと思いますが、いつしか、「自分に余裕がないと他者を幸せにできないのだから、まずは自分のことを考えた方が良い」と言った考え方が常識として拡がっているように思います。個人の利益だけでなく、社会全体の利益や、他者が協力し合い発展する「共栄」は、競争社会を否定するものでも、偏った平等論でもなく、むしろ社会にとって健康的な考え方なのではないでしょうか。国を超えて付き合う関係者も少しずつ増えてきている今、一社会人として、あらためて「共栄」精神を忘れずに取り組もうと思います。
2026/01/12
芸術団体の自立と連帯
以前、公的機関の助成金を受けた際に、助成元の職員から「文化団体は、助成金に頼らず自立した活動ができることを目指すべきである」と言われたことがあります。税金で給料や事業費がまかなわれている公務員に「自立」を指導されるというのも正直複雑な心境でしたし、必ずしも資本主義経済の理屈だけでは測れない文化芸術について、この職員の無理解を感じざるを得ず残念な気持ちになりましたが、一方で「自立」とは何かをあらためて考えさせられる機会にもなりました。日本における芸術文化団体のほとんどがこの呪縛に悩まされているのではないかと思います。特に日本は先進国の中でも文化予算が他国に比べて極端に低いと言われています。これまで諸先輩方が、芸術文化も医療や教育と同線上で考えるべきと考え、環境づくりや制度設計に奮闘されてきましたが、芸術は不要不急のものとしてまだまだその価値を上げられずにいます。しかしこれは、芸術団体の訴えの弱さゆえなのかもしれません。たとえば、経済活動を支える様々な企業、組織はロビー活動といわれる根回しや要望を訴えかける積極的な取り組みをおこない、法律やルールの制定や変更に影響を与えようとしています。実際にその努力で自分たちの活動の優位性を勝ち取ってきた分野も数多くあります。そうした取り組みを経営者や起業家が実践している姿をみると、経営努力ではどうにもならないものだから「自立」は馴染まないのではないかと考えていた自分が恥ずかしくなりました。「自立」とは自らの責任において、社会を作ろうとする取り組みの中にあり、誰かにやってもらって実現しようというのは子どもと言われても仕方がないことなのだと思います。しかし、一個人でこれらを実現しようとしても難しいというのも事実です。コロナ禍には劇場や文化団体、芸術家らが連帯して活動継続のために訴えを起こす活動もみられたように、通常時でも自分たちの活動の価値を訴え、変えていく連帯が必要なのだろうと思います。やっている方向性や美学が違えども、自分たちの活動環境や社会をよりよくするための意識変革を、ある時は協働し、連帯することで変えられるものがあるのではないでしょうか。そうした連帯による「共闘意識」という土壌を耕していく取り組みの中に、根強い「自立」が生まれるのではないかと思います。
2026/01/04
まだ見ぬ観客と私
作品と観客とが出会う時、どのような出会い方が社会にとって意味のある出会いになるのか、制作者というポジションに立つ私にいつも重圧のようにのしかかる課題の一つです。作品の内容にしても、広報にしても「わかりやすさ」が求められ、その方が多くのお客さんに届けられるので良い、という価値観が世間には根強く存在します。私自身も実際に公演に向けて多くのことが走り出すと目の前の現実への焦りから、「わかりやすさ」の呪縛に足をすくわれそうになることもあります。某有名俳優があるインタビューにおいて、「演技にしても宣伝にしても『わかりやすさ』を提供しようとする人がいるが、それは観客のことを考慮しているというよりむしろ『見下している』ことになるのではないか」という趣旨のことを話していました。勝手な想像で、このように宣伝した方が「伝わるだろう」と考えることは、本来出会うべき観客を逆に遠ざけてしまうことになるのではないでしょうか。これもある起業家が話していたことですが、商品を売る時に意識することとして、「その商品が生活の中のどのようなシーンで必要となるかをよく考えてみる」とおっしゃっていました。売りたいと思う商品の性能やデザインなど「良いところをどうアピールするか」ではなく、その商品が実際にどう必要となるのかを理想的に考えてみるということです。この過程は、社会との出会い方を考える上で必要なことだと私は思います。「作品の内容から親和性のある属性の人にアピールすればいい」というマーケティング手法によって受け手の志向を限定するのではなく、あくまで「どのような出会いが必要とされるべきなのか」という理想を掲げ、結果そこに反応する人が出てくるというのがシンプルに開かれた良い出会い方なのではないでしょうか。世界中には様々な価値観や背景をもつ「まだ見ぬ観客」が存在します。それら全ての観客との出会いを生むことは現実的には難しいですが、あらゆる情報発信の選択肢が溢れる現代において、こだわるならば「出会い方の質」であり、制作者としてその実現化に対して粘っていきたいと思います。