2025/10/13

観客とは誰なのか?

私がまだMMSTに所属する前のことですが、岐阜にある可児市文化創造センター館長の衛紀生さんによるアートマネージメント講座に参加したことがありました。劇場と地域、そこに集う人々についての実践的な内容で、私にとって発見や学びの多い機会ではありましたが、なかでも「観客とはどのような人か」を明確にしていない自分に気付かされたことは大きかったと思います。「観客」とは誰なのか?キュレーターとして作品をこういう人に見せたいと考えておきながら、集客のためにチラシや広報物を配布する際には近視眼的になり「観客」を矮小化してしまう、という経験を繰り返してきました。親兄弟、友人知人、演劇好き、出演者のファン、演出や劇作など上演作品に関心がある人、劇場の会員、など、「観客」を漠然としたイメージの中で考えてしまうのです。ある時、代表から、作品とどのような人を繋ぎたいのか、と問われ、「やりたい理想」と「やっている現実」のアンバランスさの中で回答に窮し、冷や汗をかいたこともあります。「集客」という現実の前で理想としての「観客」がボヤケてしまうのです。では「観客」を明確化すれば良いかというと、それほど単純でもありません。例えば、助成を受けたり、行政機関が主催する事業に関わると、教育や福祉的な観点への期待と要望が高く、対象が定まっていると言えば定まっています。貧困家庭の子ども、子育て中の親、高齢者、障がい者、簡単に外出が難しい人、ホームレスetc..にどういう機会を提供するのか、社会から排除されがちな人々に配慮し、取りこぼさない社会を目指そうとするいわゆる「社会包摂」という考え方が言われはじめて久しいですが、私はここにも違和感を抱いています。勿論、この考え方自体は悪いことだとは思いませんし、税金を財源とする行政機関が「社会包摂」を主張しようとする立場もわかります。しかし、社会の包摂が「誰にでも開かれた劇場や作品を目指すべきことだ」と言われると、やはり「観客」というものが霧の中に隠れていってしまうように思えるのです。 日本の公共ホールが多目的に利用できる施設を目指したがために、どこにでもあるような主張のない施設ばかりになってしまったように、個性を尊重していたつもりが、個性を潰してしまうといったことはよく起こります。様々な事情で、公演や展示、コンサートなどに行きたくてもアクセスが難しい人々がいるのは確かです、しかし安易に「誰もが楽しめる」や「誰もが参加できる」ことを目指すことが、そのような問題に対する答えになるのかどうかは落ち着いて考えるべきなのではないでしょうか。芸術には、ある常識とされる価値観に「本当にそうなのか」という疑義や「(私たちは)こう考える」という主張を投げかけて問題提起をする側面があります。立場によってこれらは「暴力」と受け止められてしまうこともありますが、誤解を恐れずに言えば、医者が患者を救う際に場合によっては麻薬を使用するように、芸術が持つ「暴力」を社会に対して有効に活用していく、といった試みが必要なのではないでしょうか。社会包摂を考えるならば、「包摂」が持つ暴力性を自覚し、且つそれが一体誰にとって必要なのかを考え抜くこと。そのような問題を問い続ける思考と実践の中に「観客」が生まれていくのだと私は考えています。 創客とはそのような地平でこそ考えられるべきことなのではないでしょうか。

2025/10/05

助成金によって生まれる豊かさとは何か

文化芸術分野における助成金の申請時期になりました。MMSTでも毎年、各所に助成申請をおこなっています。私が初めて申請したのは約20年ほど前になりますが、当時は「活動するための資金が足りないので支援がほしい」という程度の心持ちだったと思います。「助成を受けること」について、そこまで深く考えてはおらず「単純にお金さえもらえれば良い」という子どものお小遣いのようなスタンスでしたので、今思い返せば一端の大人が恥ずかしい限りです。ある頃から「助成金によって何が可能になるのか」という問いを設ける助成元が増えたように感じます。この活動が社会に対してどのような影響を与えるのか、活動する側が当然考えていなければ、趣味の延長と言われても仕方がありませんので、真っ当な問いだろうと思います。経済的に赤字が少なく済むこと以外に何がもたらされるのでしょうか。以前採択された助成元の代表者が「私達は助成した芸術団体と共闘関係だと考える」とのスピーチをなさいました。私はそれを聞いて心強く思ったことを今でも覚えています。助成金とは「ここに必要な価値がある」と訴える旗印のような役割をするものだと私は考えてます。その旗がなければやれないというような軟弱な態度では勿論いけませんが、自分たちの活動が社会にどのような影響を与えるか、そして何故そのような影響がこの社会にとって必要なのかを旗を振って提示し、説得し共闘関係を広げていく仕組みなのだと思います。どのような活動にも資金は欠かせませんし、資金のバックアップを受けてできることが広がるのは事実です。しかし、資本主義社会の中で、ともすれば切り捨てられてしまいそうな芸術活動に、あえて資金を投入すること。そして、そのことによって資本の増幅だけではない価値観をしっかりと提示していくことが重要なのだと思います。助成金によって生まれるのは、お金の使用についての選択肢の多様化であり、それによって社会に生まれる新たな「利益」の創出なのではないでしょうか。少なくとも私はそのような社会に「豊かさ」を感じますし、そのような社会を実現する為に助成金を活用していきたいと思います。

2025/09/29

要求される役回り

 この数年来、MMSTでは韓国との交流を深めてきましたが、韓国の演劇人に「集団意識の高さ」を感じることが多々あります。演劇の創作では、劇団や活動分野が違えども集まったメンバーを1つの「チーム」としてとらえることがあり、日本でも当然行われていることではあるのですが、韓国人俳優には日本人とは少し違う意識があるように感じていました。よく言われる韓国の特色としては年齢による上下関係の厳格さになりますが、その違いだけでは説明がつかず、判然としていませんでした。

 先日、MMSTのイベントのために韓国の演劇関係者が複数人来日した時のことです。中にはMMSTとも親交の深い韓国人俳優Aさんがいましたが、到着早々、移動を含めたスケジュールやその日の夕食をどうするかなどを私に尋ねました。私としては雑談のつもりで何気なく質問に答えていましたが、その後、一行を送迎車に乗せ、滞在先に向かう道中、最年長のメンバーがぽつりと「この後どうするんだっけ」と呟きました。間髪を入れずにAさんが「それではスケジュールを話ます」と車内全体に聞こえる声でアナウンスし、先ほど私が話したスケジュールの共有を始めました。その瞬間、車内全体があっという間に「チーム」になり、初対面のメンバーがいるにも関わらず強固な連帯が形成されたのです。「今ここに必要なこと」を担う役回りをAさんは買って出たということなのだと思います。私はここに韓国の集団意識の強さの理由があるように感じました。上下関係で年下が先輩に配慮するという単純なものではなく、(実際、今回Aさんより明らかに年下のメンバーもいました)「このチームにはどういう役割の人がいると良いのか」という状況把握と、そこに対応する責任の意識が強いのだと思います。日本人にもそのような人はいますが、韓国ではより当たり前の感覚として共有されているのではないでしょうか。チームの一員としてどのようなポジションを担うのか、その位置取りの把握と実行のスピードがとても速いと感じました。私自身よく陥りがちな「自分は何をすればいいか」という自分本位の視点ではなく、「今ここで必要な役回りとは何か」という一歩引いた視点が成熟した集団意識を生むのではないかと思います。身近にあるこうした良き手本から素直に学び、私自身の日常においても実践していきたいと思います。

2025/09/25

人にふれる

2025年 9月14日、2007年より当団体が運営してきた奈良県天川村の古民家アトリエ(通称MAL)での最後の公演を終えました。山深く大変不便な場所に佇む小さなアトリエに、国内のみならず海外からもたくさんの方がかけつけてくださいました。現地の村民でさえ「僻地」だという場所に人が溢れている光景を見ながら、私は「エネルギーをかけて何かをする」ということの力をあらためて考えさせられました。私たちは公演準備とともにアトリエ退去のための復旧工事や引っ越し作業を並行しておこなっていたのですが、システム化されている都市部と違い、ゴミ処分ひとつをとっても大変な困難に直面しました。しかし、この「不便さ」から生まれる人との交流もあったのです。相談すれば1時間かけてわざわざ立ち合いに来てくれるゴミ処理場の職員、こちらの状況を汲んで処分を引き受けてくれる民間業者、気にかけてくれるご近所さん、いずれも都市部の生活においてはコストとして省略されてしまうようなコミュニケーションかもしれません。しかし、不便だからこそ「協力して生きる」ことが当たり前となっているコミュニティでは、人と人を繋ぐ重要な役割として今なおこのようなコミュケーションが生きているのです。そのような現実を前に、気付くと自分の損得や効率化を考えてなるべく労力をかけずに済まそうとしてしまっている自分自身が恥しくなりました。現代では顔がみえるやりとりを面倒に感じる人が多い気がしますし、実際私もそう感じてしまうことはあります。しかしながら、エネルギーをかけて「人に会う」という「ふれあい」を失うことは、人間として何か大きなものを失ってしまうようにも感じるのです。私達のアトリエが最後に教えてくれた「人にふれる」ことの大切さを今後も忘れずにいきたいと思います。

2025/09/16

逃げたい理屈づくりの怖さ

 今夏剣道の小中学生の全国大会の運営の一部を手伝うことがありました。大会中の武道館の通路の隅で試合後の子どもに、監督が「逃げるな」と檄を飛ばしていました。通りすがりざまのことで、具体的な状況についてはわかりませんが、MMST代表もかつて剣道の経験があり、この「逃げる」「逃げない」の話は頻繁に話に出るため、剣道の世界では「逃げてはいけない」というのは当たり前の話なのだろうと思います。日本では、通念上、「逃げてはいけない」という考え方がありますが、近年、いじめやハラスメントの問題を鑑みて、「逃げる」ことを推奨する考え方も高まってきているように思います。現実の中で追い込まれてしまうくらいならば「逃げた方がよい」という考え方があることは理解できますが、逃げることが逆に問題を深刻化させてしまう側面も考える必要があると思います。「逃げること」が癖になり、一度逃げてしまうと逃げることが常態化するという悪循環に陥る傾向がある為です。MMST稽古では、「逃げない」状況を自分でいかにつくり出せるかが問われ、それを稽古の中で実践、鍛錬していきます。人は、都合の悪いことや逃げたいことが出た時、それをやらない理屈を考えがちです。しかし、実際は、そこでやりたくないこと、怖いと思うことをやらない理由を考えて許されるのは子どもだけです。大人になればなるほど、また、「逃げてはいけない」という心理が働くほど、その理屈の付け方が精巧になり、実際は逃げている状況にもかかわらず、「それは仕方がないこと」にして、「逃げ」をわかりづらくします。最近私がこの逃げるための理屈の話において、怖さを感じたのは、「もっともらしい理屈」を積み重ねるうちに、自分自身でも「逃げている」という感覚に気づけなくなってしまうということです。冒頭の剣道の子どもたちに習えば、やはり「逃げること」は強くなるための足枷になるのではないかと思います。人は問題から逃げずに対処することで成長するのでしょうし、単純にそれまでできなかったことをできるようにするというプロセスのためには「逃げない」選択肢をとるしかないと思います。私はやらないための理屈を考えて「仕方ない」と言い続ける人生よりは、怖くてもなんとか対応する人生を選びたいと思います。

2025/09/08

時間感覚の変わる空間でつくるもの

 MMSTでは、奈良県天川村という山村で築150年を超える古民家を改装したアトリエ施設を運営してきました。「芸術家が創作に集中するための空間」というコンセプトのもと、これまで数多くの作品を創作してきました。18年運営してきた当施設も諸事情で閉じることとなり、最後に私達の代表作を上演し、その長い歴史に幕を下ろす予定です。私が初めて天川アトリエを訪れたのは2013年、既に携帯電話がどこでも繋がることが当然な時代でしたが、アトリエでは一部キャリアが圏外という状況でした(2007年開設当初は全てのキャリアが使えなかったそうです)。また、アトリエ周辺には自販機さえなく、コンビニやスーパーにいたっては車を小一時間走らせなければなりません。まさに陸の孤島です。しかし、不便ではありますが、日常とは異なる不思議な「時間の流れ」を感じた、というのが私の第一印象です。時計の進度が変わるはずもないですが、時間の進む感覚がとにかく変わっているように感じるのです。「非日常的な感覚を深めるのに適した場所」と代表がいうとおり、都市部の利便性に慣れ親しんだ日常感覚を相対化するような何かがこの場所にはあるのだろうと思います。都会で公民館やレンタルスタジオといった場所を利用し創作をする場合、使用時間や音出しなどに制限がある場合がほとんどです。しかし、天川アトリエでは使用時間はもちろん、周囲に民家がほとんどないため、たとえ夜中に大きな音を出そうが苦情を受けることもありません。何より、稽古と日常を切り替える必要が無いため、実演家にとっては身体的な集中や感覚を開いた状態で持続することができるのです。かつてアトリエに滞在した俳優がこの場所を「精神と時の部屋」と称しました。大自然と共存しているような環境が人間の都合で管理されない「時間」を感じさせるのかもしれません。このような時間感覚の変わる空間でこれまで体験してきた非日常的な「時間」の堆積を有効に活用していける新たな「創作環境」を考えていきたいと思います。

2025/09/01

国を超える意識

 今年の5月まで、足掛け3年で14回実施したMMSTheaterというトークイベントにおいて、歴史に名を残す世界的な演劇人を取り上げ、ゲストと共にその功績について討論しました。彼らが常に「世界」を意識して活動していたわけではないと思いますが、時代の規範や価値観、問題意識に対してどのように対峙し、創作によって応答していたか、という自らが生きている世界との切実な「格闘」のようなものが、時代を経ても未だに多くの人に感銘を与えている要因なのではないかと思います。MMSTでもこれまで何度か韓国や台湾など国外で作品を上演する機会がありましたが、それぞれの国の文化や価値観に違いがあることを前提に観客がどのように作品を観るのか、ということを意識せざるを得ませんでした。現在EATIという東アジア3カ国での共同制作プログラムが台湾で開催されていますが、各国から参加した演出家や俳優もまた言葉や文化の異なる人々との創作を通じて自らの立ち位置を意識せざるを得ない環境に置かれています。約3週間にわたる滞在でチーム内の関係は深まりますが、公演では観客と作品を共有する為、いわゆる「内輪」ではない外部を意識する必要があります。国内であっても海外であってもその構図は変わりませんが、海外ではより明確に「共有できない価値」が意識されることになりますので「共有できない多数の価値観に影響を与える」という外部意識に集中力を傾けられるかということがよりシビアに問われます。国を超える意識とは、分かり合えないかもしれない価値観や思想を前提に新たな関係を築こうと試みる越境精神であり、その際、見えないものを実感として扱える、という演劇の特質が非常に有効に働くのではないかと考えています。かつて、MMST代表は、国際交流事業に参加した際「交流はできない」というところからはじめなければならないと関係者に話しました。食事や飲み会で仲良くなるという交流ではなく、創作を通じて、共に見えないものと対峙し、繋がらないものを繋げていくことが「演劇的な交流」であり、そのような意識の中で国際的に活躍する人材の育成も考える必要があるのではないでしょうか。


2025/08/25

台湾のパワフルさ

 この数年様々な出会いが繋がり、台湾の劇団との交流や台湾の演出家、俳優らと一緒に一つの舞台をつくりあげる共同制作をおこなうことが続いています。その一つ、韓国、台湾、日本の3カ国を中心に運営している国際交流事業「EATI」のプロジェクトが今年は台湾の桃園市で開催されています。その国や土地によって生活スタイルや文化、価値観に違いがあるのは当然ですが、私は、ここ数年、台湾の演劇関係者に出会う中で、生活レベルにおいて、彼らの感覚と日本人との違いは実はそれほど大きくないのではないかと思っていました。しかし、実際に台湾の地を訪れると、気がつけば台湾人に対し、パワフルな印象を受けていました。このパワフルな感覚はどこからくるのでしょうか。台湾人と話をする際、世界情勢や政治の話になると雰囲気が一変することがあります。特に中国との関係は複雑で、国民の中にも様々な立場や考え方があり、台湾人同士といえど時に口論になっているほどです。これはある一定の世代に限ったことではなく、若い世代と話しても同様に、国の立場としての危機感を聞きます。あまり考えたくはないことですが、「戦争になったら」という話がリアリティを持って話される時、日本人として平和ボケだと言われてしまう理由を突きつけられるようです。台湾の選挙の投票率が高いことは日本でも有名なことですが、実際に台湾人の20代と話しても「国を変えるんだ」という意識が強い人が多く、自分の周辺だけを考えがちな私自身は恥ずかしく思うことがあります。実質的な世界情勢の中ででてくるものだとしても、「自分の国をどうしていくか?」という視点を老若男女問わず、それぞれが考えているというのは日本と圧倒的に違うところではないでしょうか。この国を自分たちがどうしていくかという大きな視点と感覚は、「大人」のあり方であり、それを実現するためのエネルギーがパワフルさを感じさせる要因かもしれません。私は国粋主義に走ることには懐疑的ですが、自分や自分の周囲だけにとどまらない責任感を私たちももっと意識するべきだろうと思います。

2025/08/18

度胸と大きな視点

「度胸はあった方がいい」

 私は度胸があることは良いことだと疑いもなく思っていました。たとえ困難な状況にあってもひるまずに対応できるなど、一般的に良いニュアンスとして使われることが多いためだと思います。ただ、深く考えてみれば、単純に度胸があるなしということではなく、どういう状況において「度胸があることが良いのか」を考えることが重要なのではないかと思うようになりました。ある演劇の現場で、自分のことだけでなく周囲がどうなっているのかを感受できる大きな視点を持たなければならないという話が持ち上がりました。「今ここに必要な人はどんな人か?」を考えて行動できる広い視野が問われるということです。度胸があるというのは、このように「ここでは落ち着いて行動する人物が必要とされている」、「困難な状況にあって堂々とする人がいることで周囲に安心感を与えられるかもしれない」という「必要性」に応えて振る舞えたかどうか、が重要なのではないでしょうか。「自分がどうしたい」や「他人にどうみられたか」と言った自己完結的で狭量な視野は「子ども」と言わざるを得ず、他者との関係における「必要」を感じ取り、時に度胸のある振る舞いをとれるのが「大人」なのだと思います。

2025/08/12

怖さと行動

世の中には、思いついたら即行動するタイプと、吟味してある程度自分の中で道筋が見えてから行動するタイプがいると思います。私自身は後者のタイプですが、以前、MMST代表から、「その自分の中で整理してから」という行程は果たして必要なのか?と問われたことがあります。当時の私は、事前の計画性は必要不可欠で、むしろ思いつきで行動する方がまずいのでは、とさえ考えていました。頭の回る方はお気づきかもしれませんが、先の問いは、事前の計画性がいらないとは言っていないのです。おそらく即行動して結果が出せるタイプの人は行動とともに計画をし、その時々で生じた問題についてはその都度対処している、ということなのだと思います。MMSTの稽古でも「落ち着いて頭で把握する余裕をもつと、かえって余計なことまで考えてしまい対処が遅くなる」と指摘されます。私の躓きを振り返ると、躊躇したり、一旦立ち止まって考えたくなってしまう原因は、先の見えない「怖さ」だったのではないかと考えるに至りました。あれこれ考えず、思い切って実行に移してみれば「怖さ」自体が無化され意識されなくなるという経験を何度もしてきました。「行動する中で考える」という「現実」を引き受けることで、怖さという「幻想」を取り払うことができるのではないかと思います。

2025/08/04

「私は悪くない」は誰を守るのか

 以前、あるプロジェクトを進めている中で、関係者から進行状況について確認をされたことがあります。ただの確認であったにも関わらず、進行が少し遅れて余裕のなかった私は「責められている」ように感じ、言い訳めいたトンチンカンな回答をしてしまいました。当然相手からは、なぜそんな回答になるのかと不満を持たれ、途端に恥ずかしくなりました。咄嗟に言い訳をしてしまったのは何故だったのでしょう。どこかに「私は悪くない」と言いたい気持ちがあったのではないかと思います。「私は悪くない」という態度は、子どもにしばしば見られますが、それは「自分を守りたい」という心理からくるものだと考えていました。しかし、大人になって先のような例を考えてみると、そもそも自分を守っていることになるのか疑問が湧きます。私の言動によって少なくとも相手にはかえって不安や不満を与えており、自分を守るどころか自分の価値を咎める方向になってしまうのではないでしょうか。これは「守る」の範囲が関係するのではないかと私は考えています。例えば、上の世代の経営者から現役世代の我々に対して「覚悟が弱い」とよく指摘されます。この「覚悟」とは、単にこうするんだという独我的な自己欲求というよりは、どれくらい「周囲への影響を引き受けるか」ということなのではないでしょうか。「私(だけ)を守る」という小さな視点ではなく、「私(に関係するもの)を守る」という視点が重要であり、自らの行動や言葉が指す範囲を拡げていくことが「私は悪くない」という子どもの思考から抜け出す唯一の方法なのだと思います。


2025/07/29

道がない方を考える視点

 わからないことや問題にぶつかった時、様々な情報が簡単に手に入る昨今では、過去に誰かが作った方法論や技術を容易に参考にすることができます。道がない方よりも、すでにある道を歩く方が、過去の結果も踏まえ予想できることも多く、リスクを最小限に抑えられると考えられるため、多くの人が選びがちです。そのような中で、あえて「道がない方」を選択する人がいます。芸術家はその最たる例だと思います。また、発明家、起業家にもこのタイプが多いのではないでしょうか。MMSTの代表も「道がない方」を進むタイプですが、私は代表の言動や何人かの起業家の話を聞く中で、これらの人に共通する視点があることに気がつきました。それは「今」という現在性に軸があるかどうか、です。このタイプの人が共通して話すことには、「過去を考えても取り戻せないこと、未来をどんなに予測してもそうなるとは限らないこと、そこに時間を割いても仕方ないのだから、「今」をどうするかに集中することで、新たな道が見出せる」のだといいます。すでにある道をとることによる安全性やリスク回避は、今現在とは実質関係がなく、今を生きていることにはならない、ということです。道がない方を考える視点は「今をどうするか」という価値を過去や未来への優先度よりも高く持ち続けられるかであり、そのことが自力で考え、未来を切り開く力になるのだと思います。

2025/07/21

執着のエネルギー

 私の祖母は95歳で亡くなりましたが、生前、健康に対しての関心が人一倍高い人でした。その関心度合いはほとんど「執着」といえるほどでした。時折、祖母は戦中戦後の貧困体験から、平和な時代になっても衣食住への執着が消えないことを語っていました。私はその延長線上に健康でいることへの執着があるのだろうと漠然と考えていました。一方で、なぜ健康でいることへの執着が、何十年も毎日欠かさず運動するエネルギーになるのだろうという不思議さもありました。「執着」はエネルギーになるのだろうと短絡的に考えていましたが、もう一歩深く考えてみると、祖母の責任感とセットで考えると腑に落ちるところがあります。祖母は小学校低学年の頃に母を亡くし、戦中の状況もあってまだ幼いながら一家の大黒柱にならざるを得なかったと聞いています。祖母が後年「人様に迷惑かけずにぽっくり死にたい」とよく話していたのも、そうした幼少期からの「私がしっかりしなければ」という責任感からくるものだったのではないか。そのように考えると、「執着」はある種の責任感の中で持ち得るのかもしれないと思います。「こうなりたい」もしくは「こうならないようにしたい」ことへの執着は、自分の中から生みだすものというより、責任という関係の中からも生まれうるもので、実際にその関係の中で、物事を継続したり、達成するためのエネルギーに繋がるのかもしれません。

2025/07/13

ブーメランの意識

 少し上の世代の方々から、「人のダメなところを指摘したり揶揄しておきながら、言った本人も同じことを平気でやる人がいる」、という言葉を聞くことが増えました。確かに政治家のスキャンダル一つをとっても、問題を追求していた議員が次の瞬間に全く同じスキャンダルで叩かれるという姿を目にすることも珍しくありません。「人に言ったからには自分はしっかりしなければ」という意識が当たり前だった時代を考えれば、昨今の状況は、いわゆる他者との相互関係が弱い、保護下にある子供ような意識が蔓延している状態と言ってもいいかもしれません。「人に言ったからには」という意識は、相手を通して自分への戒めとなり、自己鍛錬の機会になっていたとみることもできます。MMSTでも、このことをブーメランにたとえて「投げたブーメランを回避できるか?」という意識が問題にされることがあり、「自分は言われたくないから言うのは辞めよう」という態度の危険性も同時に指摘されます。極めて深刻なことは、これらの問題意識の欠落は「成長の機会」の喪失に他ならないということです。ダメなものはダメだと言い、「人に言うからには」という関係意識によって自分の言動を見直し、問題があれば正すという姿勢が成長にとって重要なのだと思います。投げたブーメランの先が鋭く自分に突き刺さるイメージを持って物事に望めているか、そして、実際に堪えきれるかどうかが子どもと大人の境界線なのだろうと思います。

2025/07/07

動いて考える難しさ

 ある起業家が「準備ができたらなんて考えてないで、とりあえずやりながら考えればいい」という話をしていました。これは起業家に限らず物事を動かしている人たちの中では当たり前の考え方のようです。シンプルで一見簡単そうなことに思えますが、私自身、足踏みしてしまうことが多いです。どこでつまずいてしまうのか、動きづらくしている原因は何なのでしょうか。最近、仕事でやり方がわからない事がありました。先に事例を調べて準備をしようと思いましたが、「やりながら」という話が頭をよぎり、わからないが一旦進めることにしました。進行中は色々な問題にぶつかり、その度に「対応しつつ考える」を繰り返し、物事は慌ただしく進んでいきました。周囲から冷ややかな目を向けられることもあり、正直「やはり準備をしておけばよかった」という考えが浮かびましたが、何故か違和感もありました。「言い訳」かもしれないということです。その場でできないことへの言い訳。この言い訳が癖になっている場合、「動きながら考える」が難しくなるのではないかと思います。実践的な取り組みを、その場の決断力や実行性の質ではなく過去の準備にのみ求めることは、やはり「今」という現実を取り逃がしたピントのズレた対処を積み重ねることになってしまいます。「動いて考える」を難しくしているのは、「言い訳」によって「今」という瞬間を過去や未来に取り逃がしてしまう曖昧な時間感覚なのかもしれません。

2025/06/30

過去の参照

先日仕事で、高校生の研究発表大会に立ち会う機会がありました。参加していた学生の多くは事前にプレゼン資料や原稿を作り込んでPRしており、審査員の質問に対して原稿の中から必死に応えようとあたふたしてしまう学生が多かったと思います。そんな中、印象に残ったのは、質問をきちんと受けとめ、たどたどしくも自分の考えを述べている学生の姿でした。私もかつて就職面接で事前に準備してきた問答に頼りきり、ちぐはぐな答えしか返せなかった苦い経験があり、面接やプレゼンに苦手意識があります。準備したものをどんなにうまく再現できたとしても、「今」という時間やそこにいる相手や状況を無視すると、伝わるものも伝わらなくなるのだと今回改めて感じました。とはいえ、事前準備や過去の経験が必要ないということではありません。「以前はこうだった」とよく過去を参照してしまう私自身の実体験から考えてみると「過去を参照する」ことが悪いというよりは、「今」をなんとかするという前線への意識の弱さが問題なのだと思います。事前準備はあくまで、前線に立つという「今」に対応するための道具であり、その道具は前線でより良く戦う為にはやはり必要なものなのです。「今」がどうなっているか、そして、「どうするか」を引き受けて、「過去の参照」という道具を活かして「やってみる」ということが重要なのだろうと思います。

2025/06/23

諦めることと手放すこと

 諦めることは大抵ネガティブに捉えられますが、私は自分の中にある「こうしたい」はあえてポジティブに諦めた方がいいと考えています。これは、自分の意思を手放すことのように聞こえるかもしれません。私自身、自分はどうしたいのだろうと悩み、気がつくと時間だけが過ぎていることがありました。MMSTの稽古において「選択肢があり選べると考えている時点で前線にはいない」という話がありました。確かに私が会社を立ち上げた当時を振り返れば、実は自分の強い意志で設立したわけではありません。様々な事象が関係している中で「そうせざるを得ない、ならば」という程度であり、現実的な状況の中で決定し実行しただけなのです。これを前線だとするならば、悠長にどうしたいかと考える暇はありませんし、結果物事は前進しています。「自分はどうしたい」ではなく、自分の中にある選択肢は早々に諦め、状況を冷静に捉えて、怖くても自分だけのこだわりだと思うものは一度手放すこと、それを繰返す中で前線という「現実」に立つ意識が芽生えるのかもしれません。

2025/06/15

視界の範囲

「どのレベルで物事を把握するか」という立ち位置で見えている範囲が変わることがあります。町内会レベルの催しを考えることと、数万人規模の催しを考えるのとでは、費用も人的リソースもリスクも桁違いに変わるはずです。冷静に考えれば当たり前のことですが、私はたとえ大きな催しの中で考えると決めたとしても、知らぬ間に目の前のことだけに囚われて考えていることがあります。範囲を狭めた方がより把握できると無意識レベルで考えているのかもしれません。ある実業家が、「経営者は全てを自分のせいだと思えるかどうかが重要だ」と話していました。言い訳を考えている時点で、自分が想定した範囲が狭かったことが見えていないのだと。ここでいう想定の範囲が曖昧だと、エラーが起こった際に検証がしづらく、結果言い訳をするしかなくなるのだと思います。 視界の範囲を広げるというより、どこを想定するかの視界のクリアさが必要なのだと思います。

2025/06/09

限界のギリギリ

MMSTの稽古では「限界ギリギリで闘う」という表現が頻繁に登場します。これは「余力を残さず、自分にとって超えられるかどうかの瀬戸際で挑戦すること」を意味します。私は、この限界への挑戦で必要とされるのは「強い精神」なのだと理解していましたが、稽古場で演出の言葉を注意深く聞いていると、単純に「必死に取り組むこと」とも少し違うのではないかと考えるようになりました。そもそも限界とは何かを考えたとき、私は「限界のライン」が何を指すかを正確にイメージできないことに気づきました。目標ラインがあやふやな状態のままでは、「ギリギリ」もなにもありません。何を越えようとしているのかが不明瞭では、たとえどんなに強い精神や前向きな気持ちがあろうとも空回りの状態が続くことに繋がります。「限界ギリギリ」のために重要なことは「精神」ではなく、自分にとっての具体的な目標ラインを明確にすることなのではないでしょうか。そのラインを越える挑戦をする中で「精神」が培われていくのだと思います。

2025/06/02

課題に対するシビアな問い

 「問題」と「課題」という言葉は似ていますが、そのニュアンスには違いがあります。「問題」とは、目標を妨げている状態のことを指し、「課題」とは、その問題を解決、改善するための具体的な行動やその取り組みのことを指すそうです。

 MMSTの稽古では、自己の「問題」を正確にとらえ、その「課題」に対してシビアな「問い」を持つことが求められます。たとえば「身体を真っ直ぐにして立つ」という目標を俳優が持ち、実際には前傾になってしまうという「問題」が生じる場合、意識を強く持つ、という「課題」意識だけではなかなか解決に至りません。「何がどうなってしまうのか」「どんな工夫が必要なのか」ということをシビアに見定め、課題に対して「問い」を立て続けていくことが解決への唯一の手段であり、近道であるとしています。私は頭で考え混むことが多いため、そのような「シビアな問い」を実践と共に考えたいと思います。

2025/05/25

我慢のしどころ

「我慢」はかつて日本の美徳とされていましたが、近年では「自分らしく」いることが重要視され、無理に我慢をしない方がいいという風潮も出てきています。私自身、自殺者が多いこの国において、自己抑制的な考えを回避する人が増えることは仕方のないことだと考えてはいましたが、一方で、我慢することそのものが悪いことのように捉えられることには違和感もありました。MMSTの稽古をみている中で「我慢をする」にも、そのしどころというものがあるのだと考えるようになりました。闇雲につらいことに耐えるのではなく、自分の中にある「なるようになってしまう」ポイントを発見し、それをなんとか「そうならないように堪え切る」ことは必要な「我慢」なのではないでしょうか。そのような自己抑制の行程は、誇れる「自分らしさ」の醸成に繋がっていくものだと思います。 単純に自分を押し殺すことと混同せず、我慢するポイントを見極めたいと思います。


2025/05/18

振り幅

 MMSTの稽古では「振り幅を大きくする」ことが求められます。これは、自らのエネルギーについて最小から最大の差をできる限り大きくする、ということを意味します。振り幅が大きければ大きいほど自らの身体や精神のコントロールが難しくなりますが、あえて困難な状況を作り出すことで舞台上で求められる強いエネルギーが必要とされる、という考えに基づいています。一般的に、大人になればなるほど自分自身のコントロールが要求されますが、コントロールできる振り幅にとどまる限り必要とされるエネルギー自体は弱まってしまいますので、成長に繋がっていくこともなくなってしまうように思います。苦しくなると困難を少なくし自分が対応できるレベルで落ち着いて考えたくなってしまいますが、そういう時こそ「大きな振り幅」を意識したいと思います。

2025/05/11

仕方がない、を考える

 「仕方がない」という言葉は、日常会話でもよく使うと思います。特に、うまくいかない時、色んな理由を並べて「仕方がなかった」と言いたくなることはないでしょうか。私自身、何度となく「仕方がない」のお世話になってきましたシンプルに失敗の原因が何かを考え、どうすればよくなるのかを考えた方が未来的で健全なはずなのですが、気を抜くと「仕方がなかった」ということにして、うまくいかない状況や自分自身を擁護したくなります。しかし、それは自分を守っているようで、むしろ守れていない状況を自ら作りだしていることになります。「諦める」「逃げる」の言い訳にしかならず、そこで好転する機会を失うことになってしまうからです。

MMSTの稽古でも「仕方がない」は成長のスピードを遅らせるという話があります。うまくいかない時ほど、「なぜか?どうするべきか?」という未来的な問いを自分に向ける癖をつけようと思います。

2025/05/05

当たり前の基準

 先日、輝かしい戦績を持つ剣道強豪校が全国大会の連覇を逃し、選手たちが涙する映像を見ました。短いながらドキュメンタリー形式で構成されており、日々の過酷な練習や優勝常連校であるというプレッシャーの中で戦う部員たちの日常がまとめられていました。彼らの姿を見て「強さ」とは、当たり前の基準がどこに設定されているかということなのではないかと思いました。先輩たちが代々懸命に繋いできた実績から考えれば、彼らにとって勝つことは「当たり前」であり、その「当たり前」を維持するには日々のきつい練習にも耐える必要があります。そして、それ自体が「当たり前」であるという強固な「基準」があるように思いました。そして、日本一や世界一を目指すならば、さらにシビアな基準を持たなければならないということになります。映像の中で監督が生徒たちにかけた「基準を変えろ」という言葉を、自分の中にも持たなければと思いました。

2025/04/27

縁と継続

 先日、MMSTの台湾での国際共同制作プロジェクトが終わりました。2019年に当プロジェクトの話が持ち上がり、その後のいくつかの出会いの中で少しずつ形づくられ、気がつけば2つの劇場を横断するプロジェクトに発展していました。「縁」といえばそれまでですが、今回私は、何かを実現しようとした時に必要なものは継続性だと感じました。

MMSTの代表は事業が終わった際に出演者や関係者にいつも話すことがあります。

「真剣に続けていればまた出会うことがあるでしょう」

出会うことは偶発的なことであり、それを縁と呼び喜ぶのもいいと思いますが、その縁が次に繋がるかどうかは、継続する意志があるかどうかだと思います。実現の過程では、いい時ばかりではなく、実際には困難にぶち当たることの方が多いのではないでしょうか。それでもめげずに継続した先に、実現することはもちろん、次のご縁もまた生まれるのだと思います。

2025/04/22

説得力

 相手を納得させる能力といえば、特にビジネスでは必要なスキルとされ、そのスキルが高ければ高いほど重宝されるのが一般的です。

説得力というと、説明する力やコミュニケーション能力が高い人を想像しがちですが、実際にはその人の行動や成果にほとんど左右されていると言ってもいいと思います。

先日、某衣装デザイナーが、タイトなスケジュールの中、海外での公演に使用する衣装を作ってくれることになりました。

彼は創作現場に到着後、瞬く間に6人分の衣装を、しかもハイクオリティに仕上げました。

その現場にあつまっていたスタッフ陣は、彼とほとんど会話をするまでもなく、その仕事ぶりに感服し、一気に彼への信頼感を寄せているのが伺えました。

国境を超えても変わらないのだと感じた瞬間でした。

表面的な話術スキルでも事足りることはあるかもしれませんが、どのような現場においても、結果を残す説得力を意識したいと思います。

2025/04/13

頭だけで考えない

 「頭では理解できるが、実際にはできない」、誰しもが一度は経験することだと思います。実際に「できる」にするには実践、行動しかないことは偉人たちが証明していますが、なかなか真似ができないというのが正直なところではないでしょうか。

MMSTの稽古の中でも頻繁に、頭で考えることと「実践」のバランスの話が出ます。どちらかの比重がおかしいとうまくいかないという話で、頭で考えずにやみくもに頑張ってみても結果につながらないということを、稽古でも山ほどみています。

「頭だけ」で考えないこと、「実践」との両輪でトライアンドエラーを繰り返すことが「できる」への近道であると言われます。

自分を含めた現代人にとって頭で考える量もスピードも圧倒的に「実践・行動」よりも先に進むことが多いように思います。「実践・行動」の方を強くするんだ、くらいの意気込みでやるが両輪としてはちょうどよくなるのかもしれません。


2025/04/06

言葉が通じないからこそのインプット

 MMSTでは、現在、台湾、韓国、日本の3カ国による国際共同プロジェクト「 Othello ver 3.0」のリハーサルを福岡のアトリエでおこなっています。3カ国から各2名ずつ、計6名の俳優が、生活を含め空間を共有しています。本作では、俳優の母語となる言語のテキストをそれぞれ使用するため、3カ国の言語が飛び交います。相手が今どの台詞を話しているのか分からない状況の中で進行されますが、不思議なことに自分と同じ言語の俳優同士のやりとりでも、うまくいかない場合があります。むしろ、相手の言葉が分からない方が、集中力、インプット力が高くなっているようです。

 言葉の意味さえ分かればうまくコミュニケーションがとれるというのは幻想なのかもしれません。目に見えないが確かにある相手の呼吸や身体感覚にどれほど集中し、空間を意識しつづけられるのか、これこそが「交流」の作業なのではないでしょうか。

2025/03/31

トークプログラムを通じたコミュニティの場所

 MMSTでは、2023年3月から隔月開催でトークプログラムを実施しています。先日13回目を終えました。

2年がかりの長期にかかるイベント。当初は参加者が少ない回もありましたが、次第に固定したメンバー以外に、時には他県や海外からも参加もあり、一つのサロン的な場所がつくられているなと感じています。

終了後は、毎回必ず会場のアトリエ内で懇親会を開き、情報交換、交流を深めています。

毎回参加するメンバーの中には、「部活動のように、必ず参加しなければという気持ちになっている」という話も出るほどです。

繰り返されるイベントならではの特徴だろうと思います。

毎回決して堅苦しい話をしているわけではありませんが、一つの定期開催されるプログラムや共通のテーマを通じて、ゲストや参加者同士が他者を知り、情報交換をおこなう場があるということは、個人主義が強まるこの時代には重要なコミュニティであると思います。

2025/03/23

自分が決める

 何かを選択する時、強い意志で選び決定することもあれば、その時のタイミングや周囲との関係の中で決まってしまうこともあります。

思うように行かず、周囲のせいにしてしまいたくなる時もあるでしょう。

私が親しくしているある韓国俳優が、以前、某映画オーディションに選ばれ、良いチャンスを得ていましたが、その後、本人の意志とは関係なく様々な事情が重なり、最終的にその作品の出演を辞退することになりました。

しばらくその彼は落ち込んでいましたが、ほどなくして私にこう連絡してきました。

「それでも、最終的に辞退を決めたのは私自身です。それが正しかったと証明できるように頑張るつもりです。」

確かに、不本意なことがあったとして、それを受け入れるのも、受け入れないのも、結局は自分が決めていることだなと思いました。

何事にも自分が決めているということを今一度見直そうと思います。


2025/03/16

人のコップに水を注ぐ

 他人より自分をまず優先するという意味で使われる「自分ファースト」という言葉。

本来良い意味ではありませんが、最近では、「他人を幸せにするためには、まず自分が幸せにならなければならない」という肯定的な意味で捉えられることが増えていると聞きます。

個々人の気持ちは楽になりそうですが、実際に社会コミュニティを円滑にしているのかは疑問が残ります。

MMSTでは、集団や関係性についての考え方について、よく話題に上がるたとえ話として、「人のコップに水を注ぐ」という話があります。

これは、自分は他者のことを考えよう、自分のことは他者が考えてくれる、という趣旨の話です。確かに、自分で自分のコップに水を満たしている人に、他人は水を注ごうとは思いません。

「自分のことは誰かが考えてくれる」くらいに留め、自分は他への気遣いや配慮をする、このことが結果的には他者、ひいては社会との関係性を強くし、人間を強くしていくのだと思います。

2025/03/09

背骨の美学

 近年、福岡市周辺の小学校では、授業の号令で「腰骨を立てましょう」と言うそうです。児童たちは、腰から背筋を伸ばす姿勢をとることを促されます。私も小学生の頃は姿勢を正すように言われた記憶はありますが、より具体的な姿勢のあり方へと指示が変わっているようです。

MMSTの稽古でも、この数ヶ月「背骨の美学」の話がよく出ています。

中心や重心、腰周りを自覚的に捉えて、それらを意識的に使いながら、日常生活で立つこととは異なる、いわゆる舞台上における「立つ」を目指していくものです。

背骨を意識する、言い換えると「私はこうする」という意志を明確にすることであり、それを自己の美学として貫いていく訓練といえます。これは俳優訓練に限る話ではなく、舞台以外のどの分野の、どの仕事においても共通するものなのかもしれません。

「私の美学」をどれくらい明確に持ち、貫けるのか。私自身も稽古のたびに背筋が伸びる思いです。

2025/03/02

MMSTheaterの道のり

 MMSTでは、2ヶ月に1度「MMSTheater」と題したトークイベントを開催しています。

このプログラムは、歴史に名を残した演劇人を取り上げ、その仕事を振り返りながらこれからの演劇や創作のヒントを探っていこうというもので、2023年3月から全14回、2年がかりのトークイベントとしてスタートしました。開始時は長い道のりに感じていましたが、次回で13回目、ゴールも間近です。

このような連続企画では、とにかく継続、維持することが最も難しく、時には苦労も伴います。そのため個人の想いだけではとっくに挫折していたかもしれません。

そのような企画を「続けるコツ」は、自分以外の何かとの関係性を使うことだと聞きます。

登壇者、参加者の方々と共闘するかのような関係性の中で、現在のところ中断せずに進むことができているのは、その好例だと感じています。

こうした積み重ねが説得力に繋がると信じて、武道の教えにもある「継続こそ力なり」を体現できればと思います。

2025/02/23

バイタリティ

 「活力、いきいきとした」という意味のバイタリティ。特に日本では、「不屈、逆境に負けない」というニュアンスを含んで使われることが多いと思います。物事を動かすには、エネルギーや強引さが必要な場合が多々あり、この強さがある人を私はバイタリティがあると捉え、魅力を感じます。

 しかし、昨今では、ハラスメント問題も関係してか、強引な人や態度にはブレーキをかけるべきという考え方が増えているそうです。“リスクは極力減らし、無理はしない方が良い。”一方では正当な態度だとは思いますが、今の政治家を見ても責任回避を前提にした議論が散見され、この先に本当に「活力ある」未来があるのか疑問が浮かびます。「諦めない」ことは簡単ではありません。だからこそ価値として認められ、人も惹きつけられるのだと思います。うまくいかない時は安全策を取りたくなりますが、そんな時こそバイタリティという言葉を思い出して実行していきたいです。

2025/02/17

子どもの能力

子どもが描く絵をみると、思い思いの色や形があり、「子どもは感受性が豊か」などと言われます。「こうすべき」という社会規範に縛られておらず、自由で羨ましいと思ったことがある人も多いのではないでしょうか。私は感受性こそが子どもが持つ能力ではないかと思います。 ある人が日本の子どもは義務教育と共に感受性を失う、と悲観していました。 私は、社会の中で生きるためには、ある種のルールとしての「こうすべき」論は仕方がないことだと思います。そして、そのルールに対してどう対処するかがその人の個性に繋がると思います。 「こうすべき」論が子どもの感受性を失わせているというより、時代とともに「こうすべき」への対処の仕方を見せられる大人が減っているのだと思います。 「こうすべき」に対して、全く違う視点で、時には暴力的に切り込み、当たり前に考えていたことは「本当だろうか?」と自問させる芸術家の存在がここで必要になると思います。

2025/02/10

地味なところにこそ

 MMSTの稽古では「台詞を喋る、動く」といった外側から見てわかりやすい部分ではなく、「身体の重心を保って立ち続けること」や「日常とは違う感覚の中で呼吸を続ける」という表面的には認知できないものを重要視します。この見えない部分への自覚的な意識を養うために俳優は訓練を続けなければなりません。スポーツでも音楽でもその他の分野でも、たいてい基礎トレーニングというものがあります。舞台芸術でいえば、バレエのバーレッスンがそれにあたります。プロと呼ばれる人々はこの基礎トレーニングを怠りません。

 この基礎を継続することは地味で退屈です。しかし、ここにどれだけ向き合えるかによって成長の度合いが変わると言われます。地味の語源は、「本質的なものの趣」という説がありますが、物事の本質を捉える為にはこのような地味で退屈な取り組みが必要不可欠なのかもしれません。一流と言われる人々が基礎を重要視する所以はここにあるのではないでしょうか。

2025/02/02

頼もしい先輩像

私は、破茶滅茶な生き方をしている先輩方に出会うと、不思議と元気をもらうことがあります。周りを巻き込んででも物事を動かすバイタリティや実行力に魅了されているのかもしれません。そのような人を“頼もしい”と表現すると思いますが、この“頼もしさ”とはどのようなことを指すのでしょうか。 芸術家でも、経営者でも、政治家でも、世に名を馳せている人は大抵「私はこう考える」だから「こうする」という、「考え」と「行動」とが一つの連続性をもって働いているように感じます。MMSTの日々の稽古で言えば、「意識」と「身体」ということになりますが、「考える」ことと「身体を動かす」ことを関係付けて扱うことは実は容易なことではありません。私が頼もしいと感じるのは、諸先輩方が「思考」と「行動」とをなんとか一致させてきた実践的な連続性の輪に、一瞬でも触れているように感じた時なのかもしれません。

2025/01/26

フェイクの時代

 インターネットやSNSが当たり前の現代、かつては、個人の日記を不特定多数の人に見せることなどなく、批評や論文も発表する場が限られていたことを思うと、情報に触れる量も質も驚くほど増えています。一方で、この数年特に「フェイク」という言葉も多く耳にしますし、実際、報道にも本当か嘘か分からないような情報も目にします。

何を信じるかはその人次第だとつきつけられているような気分です。

この時代に人は何を軸に生きるべきなのでしょうか。

私は「思考する」という時間をもう一度取り戻さなければならないと感じています。

大学時代に恩師から「学生時分には、論文というのは思考の練習なのだから、できるだけ多くの文献にあたって、何度も自分の考えは本当にそうなのかと問いなさい」と言われていました。

思考する練習をどれだけ習慣づけるかで少なくとも自分の見たいものだけを見るということからは距離を取ることができると思います。

2025/01/19

迷いの時間

やることが多かったり、スピードを求められる現場において、時間をかけずに判断し適切な結果を出している人が社会には一定数います。私はむしろ必要以上に時間をかけて悩んだり考えたりしてしまうため、そういった人たちの「時間をかけない判断力と実行力」に強い憧れを持っています。そもそも、そのような違いは何処から生まれるのでしょうか?

私自身の経験から考えると、その場の状況や周囲とのリアルな関係意識よりもまず「間違うかもしれない」という内部にある不安が先に立ち、結果、判断や決定に時間がかかっているように思います。一方、前者は、そのような内的な不安よりも「スムーズな進行」や「相手や自分にどのような影響を与えたいか」といったリアルな目的とそれに伴う価値判断がはっきりしているように感じます。「迷いの時間」が増えていると感じた時には、自分は何を目的としているのか、という足元をしっかりと固めた成功のイメージを抱くよう心がけてみたいと思います。

2025/01/12

「浮く」話

 MMSTの稽古では、俳優が体の中心となる軸や重心、そしてそれを基にした演技についての考え方がゆるんでしまうことを「浮いている」と言います。浮かないようにするためには、それらへの意識を強く持てば良いことではあるのですが、そう簡単な話でもありません。そもそもなぜ浮いてしまうのでしょうか?

 浮いてしまう大きな原因の一つは、無意識のうちに違うことに気を取られてしまい優先順位が変わってしまうことにあります。特に一度に多くのことをやらなければならない場合に起こりがちです。それはタスクが増えると、できるだけ早く処理するために自身が理解できる見えやすい方から対処してしまうからです。これを回避するには、意識や対処スピードをできるだけ早くし、基点を見失わないスキルが必要になります。そして、私にとって超えなければならない最も厄介な課題は「浮く」ことを恐れずに前に進む強い精神を持つことです。

2025/01/05

相手が何を知らないかという視点

 人に何かを伝える時に、私は相手が持っている情報について、ほとんど意識せずに話をしてしまう時があります。ある時、「そのことは知らないからいきなり言われても分からないよ」と指摘されたことがあります。

「相手が知らないという視点がない」、言われてみれば簡単なことのようなのに、なぜその視点を落としてしまいがちなのか?

自分を振り返ると、相手に伝わっているかどうかよりも、自分の言いたいことの優先度が高くなっている場合に起きていると思います。これは、究極的にほとんど相手が必要ない状態です。自己内省を多く繰り返してきた人は特にその傾向が強くなるのではないでしょうか。聞く相手が自分であるため、前提が「知っている」状態で話がスタートしていることになります。これを改善するには、他者の存在に優位性を持たせる必要があります。他者もそして実は自分のことも「わからない」という前提から考えることに立ち返りたいと思います。

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