2024/12/30

知的好奇心

先日とあるパフォーマーとの会話のなかで、アイディアを形にする時には「これとこれを掛け合わせるとどうなるんだろう?」という純粋な興味が出発点であるという話があり、私は実演家の言葉として興味を持ちました。 知的好奇心が創造力の原点になることは歴史的にも疑いはありませんが、好奇心やアイディアの面白さだけを重要視する現代の傾向に私は懐疑的です。好奇心とアイデアさえあれば誰でもできてしまうかのような印象を与えかねないですし、プロとアマの境界線を曖昧にする要因にもなると思います。今回出会ったパフォーマーが、アイディアの面白さや新しさだけではなく、それらの追求による膨大な試行錯誤と、必要な技術の習得によって成立させていることはパフォーマンスを見ても明らかでした。「プロフェッショナル」と言われる領域にいけるかどうかは、この知的好奇心を実践的な行程の中で抱き続けれるかどうかなのだと思います。

2024/12/24

なんとなく症候群

なんとなく決める、ということは多くの人々が日常的に経験していることだと思います。特に現代ではこの「なんとなく」が好まれる傾向にあると感じていますが、ここに人間の成長を考える上でとても危険な要素が含まれているのではないかと私は考えています。 もっとも問題だと感じる点は、自己の責任において自覚的に決定する過程を通過しないことです。「なんとなく」では、選択肢の中から一つを選び、決定する基準が曖昧になる為、ある意味、楽に取捨選択をすることになります。これは裏を返せば思考の過程を放棄することでもあるのです。これが常態化すると目的を達成するための工夫や挑戦自体が弱まり、人間力とも言うべき生きていく力が弱くなるのだろうと思っています。無自覚に出現する「なんとなく」の病には、自覚性を持った「大人の責任」がもっとも効くのではないでしょうか。

2024/12/16

現場経験

 技術の進歩によって様々なことが簡単にアウトソーシングできてしまう現代では、精巧に作られたマニュアルによって社員教育ができると考える企業も珍しくありません。現場経験の重要さについては多くの人が語るところですが、「現場」という言葉自体「経験を積む場」という程度でしか語られず、その実態についてはあまり触れられていないのではないかと思います。

そこで、私は「現場」の中にある「現在性=今」を強調することで実態に触れることができるのではないかと考えてみました。人や物、環境など様々な条件の中で現実と向き合う時間的、空間的な場所が「現場」であり、そこで「現在性=今」に注目することで必然的に自分以外の他者への視点が生まれてくることが現場意識ということなのではないでしょうか。

2024/12/08

わかることとできること

MMSTの稽古で「わかることとできることは違う」という話がよく出てきます。言葉通りの意味ですし、私自身も初めてこの話を聞いた時に当たり前のことだと思いました。そう考えているにも関わらず、私は「先ずはわかること」からがスタートだと考えていることさえあります。この二つを考えていくと私自身は禅問答をしているような気分に陥ります。

一方で、できる=実現する人がこだわっているのは単刀直入に「できること」、だとも聞きます。考えたり理解したりすることがよくないのではなく、本来は関係がない「わかること」と「できること」をなんとなく繋げて考えていることが間違いのもとだったのかもしれないと考えると、「わかる」と「できる」が違う、ということについての捉え方が変わってきました。 「わかる」ことの思考と「できる」ための取り組みの思考との関係を断ち切ることから意識を切り替えようと思います。

2024/12/01

異なる価値観との遭遇

先日、韓国、台湾、日本の演劇関係者が韓国釜山に一堂に集い、3つのチームに分かれて各チーム一つの作品づくりをおこなうというプロジェクトに関わりました。自国とは違う文化、生活スタイルを持つ国の人々との創作現場は、想像する以上に異なる価値観との出会いがあります。演出家にしても俳優にしても現場を共にする各言語の通訳者やスタッフら、それぞれが持つ考え方やスタンスが違うことはもちろん、その中であらためて自分の立ち位置や価値観を捉え直す機会でした。異なる価値観の遭遇というのは、結局のところ他者性ということなのだと思います。今回の創作現場の中で、自分とは違う「他者」がリアルに存在しているという実感、そして色んなことを考える「他者」が複数人いて、その中でどういうコミュニケーションを取り、一つの作品をつくりあげていくのかを考え続けるプロジェクトだったと感じています。

2024/11/25

リーダーになる人

 チームで動く時、大抵リーダーになる人が出てきます。「リーダー」というと、率先して動き、チーム全体を引っ張る役割、能力をもつ人を指しますが、このリーダーができる人は限られています。学生時代から考えると、明るく、人に好かれ、誰もがムードメーカーだと思うような人がリーダーになるのだろうと私自身は思っていました。しかし、実際にリーダーになっている人の行動を見ていると、それは「役割」を引き受ける人なのだと思うようになりました。決して元々そういう能力があるからということだけでなく、チームにとってこういうことが必要だ、そのためにこういう存在の人がいる、ということを察知し、その役割を最後まで担える人が結果「リーダー」になっていると思います。自分にはリーダーの器があるかどうかを考えることは不毛であり、社会の中でも、小さな集団の中でも、その集団にとって必要な役割を引き受けられるかが必要だろうと思います。

2024/11/17

実現する力

多くの仕事を抱えればかかえるほど、一つの作業にかける時間が少なくなります。仕事だけに集中できる場合はまだいいのですが、日常生活などの別の要因も含め、時間が取られる場合も少なくありません。こうなると、多くは様々な理由をつけて抱えている仕事のうちどれかを手放したり、諦めたりします。一方で、どんなに大変なことがあっても、多くのことを実現してしまう人もいます。その人の行動を注視すると、一つのひとつのクオリティを下げて対応しているというよりは、作業スピードを上げている場合が多いようです。MMSTのトレーニングでも同様のことがよく言われます。「やることはむしろ増やす」「スピードを上げて、(やるべきことは)全てやる」これをやることはとても難しいのですが、実現する力はこのことを積み重ねられるかにあるようです。できない理由を見つけることは簡単ですが、何より「実現する」という目的をぶらさないようにしたいと思います。

2024/11/10

意味の理解と感覚の理解

 他国の人々と一緒に何かをやろうという時、共通言語がない場合は、先ず言葉の壁を感じることが多いと思います。伝えたいことの意味を辞書やアプリで調べたり、ボディランゲージを使ったり、様々な方法で意味を伝えようとします。一方で、「相手の話している内容はわからないが、怒っていることは分かる」というようなことを一度は体験したことがあるのではないでしょうか。人間は、相手のしぐさや話し声のトーン、目の動き方など言葉だけではない多くの情報を受け取り、状況を把握していることは明らかです。殊に演劇は、言葉や体を使います。言葉も重要な要素の一つですが、その言葉の意味だけでは説明のつかない感覚を、俳優の体を通して具現化する芸術だと思います。そこに面白みがあり、古代ギリシャから続く演劇の叡智だと思います。

2024/11/03

来た時よりも美しくの精神

 自分たちが使用した場所を去る時、「来た時よりも美しく」という態度や考え方は重要だと思います。次に使う人への気遣いそのものが人間の精神的な修行にも通じるようです。 稀に、自分たちさえ良ければいいや、という人もいますが、その態度がまわりまわって日本、さらには世界をダメにしていくのではないかと思います。この「自分たちさえ」という考え方は、いわゆる“子ども”の態度であり、いつでも守ってくれる親兄弟の中でしか通じないはずです。少なくとも、次に使う人への想像力と気遣いがあることが大人であり、そのような“大人”が多い社会が、どの分野においても発展を支えるのだと思います。この他者への想像力、意識をどれくらいもてるか、また、実際に行動に移せるか、とても簡単なことのように思えますが、なかなか実現したり継続することは難しいことです。少なくとも大人の態度として、日々の生活の中でも心掛けたいと思います。

2024/10/28

言葉と空間

私は韓国や台湾など他国の演劇人と一つの舞台を創作する現場によく立ち会うことがあります。複数の違う言葉が舞台上で会話されるような作品である場合、同じ言葉を話す者同士の会話のようにスムーズにいきません。台本を頭から順番にやりとりしてもうまくいきませんし、相手の台詞を丸暗記すれば良いというものでもありません。

一方で、たとえ言葉の意味がわからない状態でも、相手の俳優が今どういう状態なのか、呼吸や体を各所のアンテナとしてつかって、関係性や空間が意識されつづけている舞台では、観客もなぜか引き込まれたり、集中できたりします。この時に客席も含めた劇場空間全体で非日常的な感覚が共有されるのだと私は思います。言葉(台詞)は、舞台の魅力の一つには変わりませんが、意味内容を伝えるものだけではありません。俳優が言葉を使用して目には見えないが確実にある関係性を生み出し、観客を巻き込む空間をつくり出しています。


2024/10/20

確認作業について

 人は、物事を進行する際、それが予定通り進んでいるか、間違いはないか、確認をすることがあります。社会の中では、小さい頃から、たとえば、忘れものはないか?などと確認をすることを求められますし、当たり前の態度として考えられています。しかし、確認のためにたっぷり時間をかけることが、実は足を引っ張る場合が多いのだと知りました。 舞台に関していえば、“今、この時、この瞬間”を生きる舞台俳優にとって、一歩引いて確認している余裕はないと言われるように、確認作業は常に過ぎ去る過去を振り返ることでもあるため、一瞬の確認と共に進行しなければ「今」から遅れてしまいます。ここで難しいことは、単に確認項目を減らすということではないことです。 むしろ毎瞬多くの事項を対象にすばやく確認をし、瞬間的に適切な対応をする、このことは優れた俳優の条件の一つかもしれません。確認のしすぎが今を取り逃がす、ということは私自身も意識したい点です。

2024/10/13

欲望と憧れ

 こうなりたいという憧れがある場合、そこになんとしても近づきたいという欲望の有無によって、それが憧れに留まるのか、具体的な目標になるのかが変わってくると思います。憧れとは、辞書的な意味合いでは理想とする物事や人物に強く心引かれる状態を指しますが、それ自体ではイメージに過ぎません。その憧れを現時点の自分に照らし、不足している部分を補おうとする欲望の強さがどれだけ強いか、そして、それに対して現状の自分をどれほど正確につかめているかが、単純なイメージの世界から、具体的な問題へと進む鍵となっていきます。憧れを持つことは決して悪いことではないですが、ただ憧れを抱くばかりではなく、そこに到達したいとう欲望を強くする必要があるのだと思います。

ここでいう欲望を、自分のことだけを考える自己欲ではなく、自分の可能性を広げるための具体的な方法として捉えていけたらと思います。

2024/10/06

「型」の効能を考える

 「ものを作るときに形をつくりだすもとになるもの」を意味する「型」について、 最近のMMST稽古では、俳優が自身の基本となる「型」に立ち返り、それを自身の美学として徹底し、追求していくという話がよく出ています。 どの分野でも言われることですが、完全なオリジナリティから出発することはほとんどありません。日本では、剣道、柔道などの武道の精神、能狂言などの伝統芸能においても「型」を重要視することは多くの人が知るところです。 土台となるものがない状態では、採点基準がないテストを受け続けるようなもので、うまくいっているのか、いないのかを判断することはやはり難しいものです。 自分の中に「型」をもつこと、そしてその「型」を軸とした判断基準を持って反復練習を重ねながら技能や精神を鍛錬していく先に、その人固有のオリジナリティが見出されてくるのだそうです。「型」の奥深さを感じます。

2024/09/29

「あらすじ」と「感想」

 以前MMSTでは、戯曲勉強会をおこなっていたことがあります。ギリシャ悲劇から現代まで、国内外の著名な戯曲を週に2~3本のペースで読み、参加者各自が400字以内にまとめた「あらすじ」を共有して、どのような作品であったかを勉強するというものです。 ここでは、読者が感じたことや考えたことをまとめる「感想」ではなく、作品には何が書かれているか?という「あらすじ」を書くことがルールでした。 この「あらすじ」を、決められた字数内に的確にまとめる作業が予想以上に難しく、気を抜くと自分勝手な感想になってしまいます。同じものを読んでいるはずなのに、参加者がそれぞれ全く違う観点でまとめていることが多々ありました。 作品は自由に解釈すれば良い、という声が大きくなっている昨今ですが、様々な考え方や多様な価値観が日常に溢れる時代こそ、より「あらすじを掴む読解力」を鍛え直さなければならないのだろうと思います。

2024/09/22

しつこくあれ

 ビジネスで成功する秘訣は営業力でもビジネスセンスでもなく、「しつこさ」であるという話を聞きました。 「あの人はしつこい」という文言が、ネガティブなニュアンスで使われる場合が多いように、人に嫌われてしまうと思われがちな「しつこい」ですが、「一度だめでも成功するまでトライする信念がある人」と言い方を変えると印象がまるで違います。 何度失敗してもくじけずに努力をするということが、最終的にビジネスでも結果を残すというのも納得ができるところです。 これはビジネスだけの話でもなく、どの分野でもいえることなのではないかと思います。 私の知人にしつこさが服を着て歩いているような人がいます。一部から敬遠されるところもありますが、とにかく何にしても簡単に諦めない。ただ、本当にこうだと思うことをなんだかんだ実現しているのです。その人を横目に、「しつこくあれ」を私も教訓にしています。

2024/09/15

「なんとなく」の害

 日常生活において、なんとなく選んで決定してしまうことは少なくありません。それは「なんとなく」という感覚的な気持ち以上に特にこだわりがあるわけでもないですし、普段の生活の中で些細なことの一つひとつを分析、思考して理由づけていくことは疲れると思ってしまうからです。 ただ、舞台上で実際に創作を進める過程においては、この「なんとなく」の決定は「そこにこだわりがない」「価値をおいていない」ということと同義ということになってしまいます。名優と言われる人達の中には「舞台上では何も考えていない」「感覚的にやっている」という人がいますが、それは言葉上でのことであり、実際は考えていないわけでも、選択を放棄しているわけでもないのだろうと思います。 MMSTでは、「今、この瞬間をどうつくるか」という舞台の戦いの場では、この「なんとなく」が最も強く厄介な敵であると考えて日々の訓練を重ねています。

2024/09/08

舞台上で生きること

 公演の本番はもちろん、稽古においても、私は舞台上で集中する俳優に神秘性を感じる時があります。

「舞台に上がった俳優は日常とは違う感覚をもって時間と空間を生み出す」 私は当初この話を抽象的に考えていましたが、様々な現場に立ち会う中でかなり具体的なことだと理解するようになりました。 日常生活にはない呼吸感覚や身体感覚を鍛錬した俳優は、舞台に上がった時、確かにその時空、瞬間を生きている。生き直しているというと語弊がありますが、普段生活する中での体や意識とは別物として登場し、別次元の世界(空間)をつくり出します。 非日常を生きるために何が必要かを真剣に考え、もがいて、一歩舞台に上がればそこに生きる覚悟をもつ俳優が説得力を持つのは当然のことであり、見る者の価値観を揺さぶる可能性を広げることも頷けます。俳優が舞台に生きる意味はここにあるのだろうと思います。

2024/09/01

フラットな国際交流

 現在MMSTでは台湾、韓国、日本の演劇関係者らと共同制作のプロジェクトを進めています。国際交流事業を行う場合、各国の俳優やスタッフはアトリエにて共同生活を送る場合が多いですが、互いの生活習慣、食生活などに触れた際にはおのずと文化の違いや価値観について振り返る機会になります。また、生活面では食事後の皿洗いをジャンケンで決めるという方法を取り入れており、なぜか毎回とても盛り上がります。この皿洗いジャンケンは公平に片付け者を決めるということではありますが、それだけでなく、関係者間の円滑なコミュニケーションにも繋がっていると感じることが多々あります。

グー、チョキ、パーのたった三種類の手の形を使ったシンプルな遊びが、国を超えて、一つのルールのもとに、知らずしらずのうちに交流を深めています。

2024/08/26

空間的な情報共有

 人間は同じ空間を共にするだけで多くの情報をやりとりしているようです。空間芸術、集団芸術と言われる舞台芸術の世界では当たり前のことかもしれませんが、現代社会では特に軽んじられていると感じることが増えてきました。様々な情報交換ツールが発達し、効率化を求めると、確かに人と人が情報を交換するためにわざわざ同じ場所に集うことが非効率であるという考え方になってしまうことは理解できます。しかし、一方で、同じ空間を共にしていないがために落としている情報というものもあると思います。

 言語化できないのですが、なぜか、会わない時より、会った方が交わした言葉は少なくとも、相手の状況や考えを共有していることが確かにあるのです。ただ同じ場所にいることによって、見えない情報交換がおこなわれているとしたら、それこそが豊かな情報なのかもしれません。

2024/08/18

恩師の言葉

 大学時代の大恩師、美術研究者の浅野徹先生の訃報の知らせを受け、20年ほど前の思い出の数々を振り返っています。私は学生時代に美術史を専攻しており、研究者としても美術館学芸員としてもご活躍されていた先生から、多くの学びを受けました。先生のご指導の中で、今でも心に残り、人生の教訓として刻んでいる言葉があります。

「学びとは山登りのよう、ようやく山頂に登り着き、そこからの景色をみた時『あぁ、自分は何も知らなかった、知らないということを知らなかった』と知る、そのように感じられる、そこに学びがある」

 どなたかの山登りの体験についての著書の一節を引用してのお話しで、当時必死に修士論文を書き上げてほっとしていた私は、自分の学びを省みる機会になりました。今でも、背筋の伸びた姿で研究室の椅子に座り、柔和な笑顔で「やあ」という先生の顔が忘れられません。先生、ありがとうございました。ご冥福をお祈りします。

2024/08/11

集団の中の意識

 「私たちはチームですから。」

 数年前、とある演劇創作の現場で一つの困難を抱えた時に、出演者の一人であった俳優が言った言葉です。学校でも会社でも集団への意識、優先度が低くなっている昨今、この言葉が頭をよぎります。先日、剣道の全国大会に立ち会う機会がありました。全国の小中学生たちがしのぎを削って勝ち上がり、頂点を目指す場です。特に団体戦では、歴代名を残してきたチームになればなるほど、大将のプレッシャーは計り知れません。チームが努力してきた過程、試合に出られない仲間、コーチ、親族ら周囲の支援、過去の先輩が残してきた成果、その全てを背負い、自分が勝ちたいということだけではない重い責任感の中戦っているのかと思うと、見ているだけでも緊張します。集団創作と言われる演劇ではどうか?彼らの姿を見て、自分がどうしたいか、以上に、自分はこの集団にとってどうあるべきか、という意識を振り返る機会になりました。

2024/08/04

「疑っています」は誰が得するのか

 「あなたを疑っている」という言葉を直に投げかけられることはあまりないですが、疑われているなという状況に出会うことがあります。たとえば、やたらと注意書きが多い公共スペース。確かに不特定多数の様々な人が利用し、時にはルールを守らない人もいるので、書きたくなる気持ちは分かります。

 しかし、一方で「〜しないでください」、「〜してください」の文言が溢れる中で、どれくらいの人が気持ちよく利用できるのだろうと思います。他にも、郊外でよく見かける無人の野菜販売所に監視カメラがついている場合、私は悪いことをするつもりはなくても、何かいたたまれない気持ちになります。そんな私自身、そのつもりはなくても、「疑われている」と思わせる行動をとっていたことが振り返るとあります。「疑う」ことそのものは悪いことだけではないですが、円滑なコミュニケーションを考える時、誰が得をするのかという問いを一度自分に向けようと思います。

2024/07/28

任せること

 MMSTでは、2022年にフランスの作家、マルグリット・デュラスの「La Douleur/苦悩」(1985年)を原作とし、熊本の劇作家、川津羊太郎さんに上演テキストを書いていただき、上演しました。 川津さんに依頼する当初、当団体代表の百瀬はデュラスの日本翻訳版新書を川津さんにただ「よろしく」、とだけ送りました。連絡担当としては当然のように演出家と劇作家でやりとりが何ターンかあるものだと思っていましたが、両者共に何も言いません。期日さえはっきり決めてもいないのに、川津さんからも何も確認がありません。次第に私は焦り、百瀬に川津さんに確認することがあるか聞くと、「川津さんに任せているから何も連絡しなくて大丈夫」とのこと。その後、川津さんからは頃合いの時期にテキストデータが送られてきました。そして、その後預かったテキストについて、百瀬は言葉ではなく、上演という形で川津さんに応えたのでした。任せることの真髄を見たような一件でした。

2024/07/21

呼吸とコミュニケーション

 先日、韓国釜山で開催された「ロミオ&ジュリエット」をテーマとしたフェスティバルにM.M.S.T代表の百瀬が演出家として参加しました。出演者は、韓国人俳優と、日本人ギタリスト。分野、国、言葉も違う実演家の共演です。人間のコミュニケーションといえば一般的に、言葉や身振りなどを交わして意思疎通を図ることが多いと思いますが、今回の創作では3つの音素(破裂音、摩擦音、共鳴音)で会話の可能性を探ろうという試みが行われていました。 稽古では呼吸感覚の意識と音とのコミュニケーションの作業が行われ、俳優の台詞はあるものの、俳優とミュージシャンは、会話上のやりとりやカウントをとってタイミングを合わせるということはしていませんでした。 しかし、呼吸一つとっても多くの情報を伝える身体言語があり、確かにそこに「ある」コミュニケーションの瞬間が垣間見られた時、人と人が共存して目に見えない価値を創造する演劇の可能性を感じました。

2024/07/15

「今」の価値

  「今を大事に」という言葉はよく聞きますが、その「今」を本当に意識できているかと振り返れば日常生活ではなかなか難しいものです。 MMSTでは、創作に関して、関係するメンバーには本番も稽古も同じということを最初に共有します。 稽古であっても、本番と同様に臨むこと。 体調が悪いからという理由で、もしくは本番のために少し体力を残そうというような考えで、全力をかけられないようでは「今」を取り逃すことになります。 演劇は時間と空間の芸術と言われるように、俳優が同じ台詞をしゃべったとしても、同じ時間、空間は二度とかえってきません。 この「今」に対する価値をどれくらいもつことができるかが問われます。

   その一瞬の「今」の価値を一つひとつ積み上げることはとても難しいことだと日々稽古を見ていても感じます。 「“今”、この瞬間にどれくらい全力をかけられるか」の覚悟は、舞台の大きな価値と魅力だと感じます。

2024/07/07

1つを選択する一歩

 学生時代、論文を書くにあたって恩師から次のように教えを受けました。

「論文は思考を育てる訓練です、様々な視点やたくさんの言説がある中で、一つの仮説を立て、少なくとも「私はこう考える」と述べなさい、それが自分で考えることの一歩です」

   当時はそういうものかなと思う程度でしたが、その後社会に出て色々経験するうちに、人生の教訓のように思えています。   

 選択肢が多いことは色々な可能性が広がり良い面もありますが、反面、多くの中から何を選ぶのかという迷いが生じます。

   私は学生の時分にも「これは正解なのだろうか」とあれこれ迷い、何をしたかったのかわからなくなることさえありました。しかし、その選択の正誤を考えるにも結局のところ、まずは「これ」を決めなければ始まらないし、永遠に迷いをループし続けることになるだけです。

 たくさんの選択を持ち続けるよりも、一つを選択した一歩から、豊かな可能性が広がることがあると思います。

2024/06/30

やることを増やすという負荷

 MMSTでは、より負荷をかけ、やることを増やす方がよい、と稽古含めよく言われます。

 何かしら行動や選択をする時、じっくり考え、一度にやることは減らした方が、よりよい状況を生み出せるはず、と当たり前のように思っていた私にとっては不安しかない考え方です。    数年前、東京都心で荷物満載のバンを運転する機会がありました。ガンガンに攻め込んでくる大都市の交通状況に若干パニックになりながら必死で走行を終えた私に対し、同乗したスタッフがかけた言葉は、まさかの、「日頃の運転よりスムーズに運転していたね」。    自分の感覚としては、あちこち気にしていて、考える余裕なんてない。しかし、その方が結果うまくいくようだ、ということを体感的に感じた出来事でした。やることが増えるとその分負荷がかかり大変。しかし、その方が、なぜか適切な判断をする意識が働き、うまくいく方法を選択していたりします。そういう能力が人間には備わっているようです。

2024/06/23

他者意識によって生まれる想像力

 「想像力」を辞書で調べると、「想像する能力。目には見えないものを思い浮かべる能力」といった説明が並びます。

 クリエイティブな領域だけでなく、日常の些細な点においても、人間はこの能力を働かせながら生活をしています。AIなど情報技術の発達によって様々なことの利便性が増し、恩恵を受ける反面、私はこの想像力はどうなっていくのだろうかと考えることがあります。  最近私がよく現場を共にする韓国人俳優は、気遣いのプロと言えるほどに相手への配慮が細やかで、何も言わずともほしい情報を揃えていることがあり、未来を見越したそれらの行動を見ると、想像する力とは他者意識がどれだけ強く持続されるかということではないかと思います。  相手や今周囲がどういう状況にあるのかという他者への意識が、想像する力をより高めるのだろうと思います。    他者を前提とした芸術である演劇。これからの時代も、ここに生きるヒントを見出せるのかもしれません。

2024/06/16

拠点と創作環境

 MMSTでは、2007年から奈良県の天川村という山村にアトリエを構え、滞在して集中創作する場として活用しています。

 アトリエは村の中心部よりもさらに奥地にあり、周囲は豊かな自然に囲まれる分、それ以外何もないと言っても過言ではない場所にあります。最寄りバス停から徒歩1時間半、最寄りのコンビニにいたっては車で1時間。この日常空間と切り離された場所での創作は、多くの面で効果的な作用をもたらしています。利用時間や音問題を気にすることもなく、稽古ごとに様々なスタジオを転々とする必要もなく、腰を据えて集中できる環境は、自ずと作品のクオリティにも影響を与えます。
 私はアトリエでの創作現場を経験する度に、「拠点」となる場を持つことは、創作の基盤をより強くすることとパラレルだという考えを強めています。物理的に、簡単には逃げられないこの空間での集中創作が、まさに修行の地といわれる所以です。

2024/06/09

成り上がりの熱量

 何かを変えたり、動かしたりしようとする時、少なくともそこには大きなエネルギーを必要とします。

 効率化をもとめる現代社会の中では、そのエネルギーはコストとされることも少なくなく、 できるだけエネルギーをかけずに目標に辿り着くことの方が美徳のように語られることさえある時代です。    『成りあがり』(角川文庫/2004年)は、言わずと知れた日本のトップミュージシャン矢沢永吉が、貧しかった幼少期からミュージシャンとして成功していくまでの想いや経験談を赤裸々にまとめた自伝ですが、この道程には、「やってやるぜ」という尋常ではないエネルギーと行動力が一貫しており、時にはハッタリもまじえて、まさに「成り上がる」様が伺えます。    道なきところに道をつくること、彼に学ぶ「今にみてろよ」の熱量が試されるのであり、自戒も込め、この熱量と行動力こそが、巌も通すために求められる能力なのだと思います。

2024/06/02

「中心があるか」という問い

 MMSTでは、公演のあるなしに関わらず、週に3回の定例稽古をおこなっています。

 稽古内容は創作の基盤となる身体訓練で、所謂、筋肉強化や良い声が出る、ということのためのトレーニングではなく、集団としての共通の価値、言語を持つことに主眼が置かれています。  私はMMSTに所属して以降、訓練での演出家の発言をノートに書き留めてきました。その中で頻出する文言の一つが「中心」です。これは、体の軸はもちろん共通の価値をぶれさせない精神的な軸のことも指します。  ここ最近の稽古では、特に、俳優が自覚的に「中心」を意識できるか?を問われています。この「中心はあるのか?」という問いは、訓練上だけでなく、私自身の日々の活動や態度にも問われているものとして鋭い矢のように刺さります。私は何を価値とするのか。  ノートを書き溜めて10年。現在16冊を数えます。見返しても驚くほどに同じことしか書いていません。演出家は中心が決まっています。

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